2012年6月19日火曜日

「死病・大動脈瘤破裂からの生還」顛末


<突然の激痛>
  2012年5月13日・日曜日、二日酔い気味の午前中は、一人で、東京・大田区下丸子の自宅で過ごしていた。 

  前日午後、内幸町のプレスセンターで、元毎日新聞記者のジャーナリスト故草野靖夫の「偲ぶ会」が開かれた。 参加したのは、われわれと同じ団塊世代かそれ以上。 ジジイの集まりだったが、久しぶりに旧友と会い、午後明るいうちから有楽町のガード下で本格的に飲み始めた。 夜10時すぎまで話がはずんで、かなり酔った。 帰りの電車では居眠りをして駅を4つも乗り越し、いつ自宅にたどり着いたのか記憶にない。

  朝は二日酔いではあったが、気分が悪くなるほどではなかった。 朝食も普通に摂れた。 つまり、のんびりとした、初夏の日曜日だった。

 午後0時50分ころ、テレビ東京の「なんでも鑑定団」をみようとしたときだった。 便意を感じたのでトイレに行った。 だが便は出ない。それでいて下腹部に便秘時のような重苦しさがある。 数回トイレに行ったが同じだ。 そして、突然の痛みがやってきた。

 これまで経験したことのない痛み。 便意と思った感覚が次第に深い痛みに変わっていく。 からだをエビのように曲げて耐えるが、もうだめだと思った。 病院に行くしかない。

<病院探し>
 だが、救急車は呼びたくなかった。 以前の経験で、救急車は到着しても、車内で問診や血圧、体温測定などで30分近くは出発しようとしない。 しかも、患者を搬送すべき病院を電話で探すが、ベッドが足りない、医師がいないなど様々な理由で、簡単には決まらない。 自分の痛みに、それほど長い時間耐えきる自信はなかった。

 そこで、自分でタクシーを使って病院に行くことにした。 痛みを懸命にこらえながら、大田区の休日診療所の電話番号を探し出し、近隣の大病院、荏原病院に電話した。 だが、交換手は出てくれたが、救急担当が内線の呼び出しに応答しない。 交換手は、ここに直接来てもらっても困る、他を当たってくれという。

 次に電話したのは、田園調布医師会診療所だった。 そして、すぐに来ていいと言った。 無線タクシーを呼んで15分。 やっと来たタクシーの車内に、からだを「く」の字に曲げたまま倒れこむ。運転手の顔が引きつっていた。

<意識を懸命に保ちながら>
 診療所にたどり着いたときには、痛みで気が遠くなり気絶寸前だった。 待合室にいるとき、だれかが「結石?」「盲腸?」などと言っているのが聞こえる。 「こっちの痛みも知らず、勝手なことを言ってやがる」。 診療室に入る。 黒い網目のストッキングをはいた長い足、豹柄のミニスカート。 からだを曲げたままなので顔は見えないが若い女の医師のようだった。 なぜか、気を失いそうなくせに、こんな観察と判断だけはできた。

 その女医は言った。 「ここでは手に負えない」。 そして、自分で電話したときは断られた荏原病院を紹介し、すぐに行くようにと言われた。 どうやら、医療機関同士のあいだには、一般人とは異なる連絡ルートがあるらしい。
 
 ただ、診療所の態度は実に非人間的だった。 激痛で身動きがほとんどできないのに、2000円余りの請求書を突きつけた。 ズボンの尻ポケットから財布を引っ張り出し、やっとの思いでテーブルの上に放り投げる。 「勝手に取ってくれ」という意思表示だ。 相手は「そんなことはできない」と言って、ザルみたいなものの上に見えるように財布を置き、カネを引き出し、釣りと領収書を置いた。 きちんとカネの授受があったことを示すためだ。

 だが、それが終ると、歩くこともできないのに、外に行ってタクシーを捕まえて病院に行けという。 冗談じゃない。 激痛をこらえ歯を食いしばって、救急車を呼んでくれと頼んだ。

 これから先の記憶は曖昧だ。 荏原病院で検査を受けたのは間違いない。 「大動脈瘤破裂、血液外科の専門医がいる昭和大学病院に移って手術をする」と言われたところで、意識は消えた。 「大動脈瘤って何だ?」 消える意識が考えた。

<意識が戻る>
 気付いたのは、翌日5月14日・月曜日だった。 自分でそれがわかったわけではない。 そばにいた誰かが教えてくれた。 もう痛みはなかった。

 あとでわかったことだが、この瞬間が大動脈瘤破裂 という恐ろしい死の病から生還した瞬間だった。自分のからだがどうなっているのか、まったくわからない。 すぐにまた眠りに落ちたのだと思う。  次に目覚めたとき、自分のからだに様々な管がつながれていたのに気付いた。 鼻、口、腕、胸、腹…。 この病院に来てから、何日がたっているのか、まったくわからない。

<大動脈瘤破裂>
 のちに、自分がどういうことになっていたのか知らされて、生きていることが奇跡に近いことがわかった。 平均的数字では、大動脈瘤が破裂し苦痛でのた打ち回っているうちに6割が死ぬ。 そして病院に搬送される途中で2割、手術中に1割、つまり9割が死亡する。 石原裕次郎の死因にもなった。
 
 大動脈瘤ができる原因は、コレステロールによる動脈硬化と高血圧だという。 だが、体質にもよる。 私の場合、コレステロール値、血圧とも悪くはなかった。

 破裂したのは腸骨大動脈瘤だった。 心臓から、からだの下へ腹部大動脈が伸びる。 途中、腎臓への血管が枝分かれし、その先が下腸間膜大動脈、それが両脚の付け根方向へ左右二股になる。 この2本を腸間大動脈という。

 大動脈瘤は左右にひとつずつあり、破裂したのは右側だった。 通常、この破裂で血液約2リットルが体内に流出し、多くの人がこの多量の出血でショック死する。 私の場合、医師によれば、理由は不明だが、この出血が少なめだった。 だが、もうひとつの腸間動脈瘤は、8㌢×11㌢×5㌢という巨大なもので、医学の常識では破裂しないで成長したのが不思議な大きさだったという。 さらに、下腸間膜大動脈にも、,ある程度の大きさの大動脈瘤ができていた。 

<手術>
 手術は、病院に運び込まれた13日の午後6時から始まり、14日午前1時45分まで7時間45分に及んだ。 大動脈瘤を処理し、下腸間膜大動脈から二股に分かれた腸管大動脈までの部分を切除し、長さ約40㌢、逆Y字形の人工血管で繋いだ。 家族は最悪事態(死亡)に備え、手術終了まで、ずっと待機していた。

 手術では、臍の上10㌢あたりから恥骨の上まで開腹した。 術後すぐに縫合すると内臓が壊死する恐れがあるため、3日間開いたままにしていた。

 意識がちゃんと戻ったのは、おそらく、病院に運び込まれてから4日後の5月16日、腹部の縫合が終ったあとだったのだと思う。

<ICU(集中治療室)>
 術後入ったICUのベッドで、5月16日に家族と筆談したノートが残っている。 ほとんど判読不能だ。 文字を書こうとしても、ペンを持った指とノートとの距離感がわからず、しかも指があらぬ方向へ動いてしまう。 なにかを書いても文字にならないのだ。 ただ、かろうじて読める部分にはこう書いてあった。

「死にそこなった?」

 どうやら、このときには事態を呑み込めていたようだ。

 ICUには、5月26日まで2週間近く入っていた。 尿道にはカテーテルが入れられ小便は垂れ流し、大便はオムツに排出する。 初めての経験で、若い男女の看護師たちに後始末をしてもらうのは、当初かなりの抵抗感があった。 だが、身動きできず自分で何もできないとわかってみると抵抗感はすぐに消えた。

 顔なじみになった若い女の看護師は後始末をナース・コールのスウィッチを押して頼むと、気軽な ダジャレで返事をした。 「シリコンバレーね、すぐ行きま~す」。 (参考までに、病院語では、ションベンを「お小水」、ウンコを「お通じ」という)

 それにしてもICUでの2週間は辛かった。 鼻と口から栄養補給と呼吸のための管が差し込まれ、からだを思うように動かせず、節々が痛くなる。 ときどき息苦しくなったり、腹痛がする。 脂汗をじっとりとかいたかと思うと寒気に襲われる。

 もっとも辛かったのは、喉にたまった痰の吸引だった。 看護師が喉に管を差し込み、痰を吸い出す。 5秒間か10秒間、苦しくて全身が硬直する。 

<ICUシンドローム>
 長くICUに入っていると、日にちや時間の感覚がなくなり、様々な幻想、幻覚にとらわれるようになる。 これをICUシンドロームという。

 確かに、それはやってきた。 まず、今いる病院が、かつて住んでいたトルコのイスタンブールにあると思い始めた。 場所は市中心部から郊外の国際空港へ向かう道路沿いのどこか。
目を閉じて、なにかを見るとデジタル・カメラのズームのように、視線を向けたものが拡大されて見える。 目を離すと小さくなる。

 ベッドから首をあげて足元の方を見ると、水平なはずのベッドも床も垂直になっていて、恐ろしく高いところから下を見下ろしている。 足がすくむ。 何度かまばたきをすると元に戻る。
こうした現象は、目覚めている時間が次第に長くなり、日にちの感覚が戻ってくるにつれ消えていった。

<ICUから一般病棟へ>
 ICUにいた最後の数日、からだを起こしベッドのへりに座れるようになった。 さらに、看護師たちの手助けで立ち上がってみる。 かろうじてバランスをとることができる。 ためしに、その場足踏みをやってみるが、膝が上がらない。 それでも、足を動かせたのは、嬉しい瞬間だった。

 5月25日、口と鼻に差し込んであった管がとっぱらわれた。 これだけで、ずいぶん元気を取り戻せた気になった。
 
 翌26日、ついにICUから一般病棟に移された。 瀕死の病人が晴れて、普通の病人に格上げされたのだ。 ただ、チンボコのやつは、かなり戸惑ったようだ。 尿道のカテーテルが外され、それまで2週間も続いていた垂れ流しが急に終った。 だが直ちには適応でjきない。 尿意を感じるや否や、我慢することができず排出してしまうのだ。 適応するまでには1日以上かかった。

 点滴も終わり、おかゆ中心の食事になった。 だが、縮んでしまった胃は簡単には食べ物を受け付けない。 当初は、ほんの一口、二口を飲み込むのが精いっぱいだった。 腸も働かない。 このときから、消化器官のリハビリが始まった。

 手術後の点滴で水ぶくれになり異常に増えた体重とウエストが減少し始めたのは、このころからだった。 入院前、体重は66㌔、ウエストは79㌢程度だったが、ICUにいたときには、体重が74㌔、ウエストが94㌢にも達した。 (2週間後に退院したときに体重は60㌔にまで落ちていた)

<体力の回復>
 歩く練習も始めたが、車輪の付いた支え車につかまって10㍍も歩くと、へとへとに疲れた。
しかし、このあとの体力回復はめざましかった。 病棟の廊下は約50㍍。 支え車なしで動けるようになってからは、ここを毎日歩き、少しずつ距離を伸ばした。 初めのうちは50㍍歩くと息が切れた。 だが、まもなく廊下往復100㍍に距離が伸びた。 だが、たったこれだけの距離を歩くだけで、股関節周辺の筋肉に疲労感がどっとやってきた。
 
 ところが、10日後の6月4日には、この廊下を1日のべ30往復、3㌔も歩けるようになった。 こうなってくると、病院の中はいかにも狭い。 病院からの無断外出の回数が次第に増えていったのは、当然の成り行きだった。 おかげで、病院から近い旗の台駅周辺の商店街については、かなり詳しくなった。

 ベテラン看護師が言った。 「ひょっとして、勝手に外出していない?」 どうやら、無断外出はバレバレだった。

<退院>
 着実に体力回復している姿を見て、医師が「いつ退院してもいい」と言ってから1週間、6月16日に退院した。 当分は、食事を食べ過ぎないようにきちんと摂り、与えられた薬を忘れずに飲む。 病院内とそれほど変わらない生活が続く。 急ぎすぎないように体力を回復しなければならない。 今年の秋にはテニス、冬にはスキーが目標だ。

<支えてくれた友情・愛情>
 5月13日に入院したあと、妻が何人かの友人・知人に連絡した。 「あいつが死にそうだ」というニュースは瞬く間に広まったようだ。 意識が戻ってから、友人たちからの応援メールを見た。 こんなに多くの人々が心配してくれたんだ、と驚きながら感激した。 

 Mは、「あなたを必要としている人たちのために頑張って」と意識不明の私にメールしていた。 敬虔なクリスチャンのSは神に祈ってくれていた。 
5月30日、メールを打てるまで体力が回復し、友人たちに「ありがとう」のメールを送った。

 「やっとメールを書けるようになりました。ただ、皆さま一人一人に書く体力がないので、とりあえずは、このご挨拶で許してください。
どうやら、地獄の一丁目までさ迷い込み、三途の川を振り返ってみたら、戻った方が絶対楽しいと気付いたんでしょうね。
 生き返って、皆さまから頂いたメールを読ませてもらって、それを実感しました。不覚にも、うれしくてベッドでぼろぼろと泣いてしまいました。
 ボクは、ダイハードで悪運が強いと自覚(自負?)してましたが、それはカンボジアとかアフガニスタンとかイランとかイエメン、アルジェリアといった戦場の修羅場で、今度みたいに、自分のからだを戦いの場にしたのは初めてのことでした。
 色々な意味で勉強になりました。
 元気に退院したら、話をたくさんきいてください。
 皆さま、本当にありがとう。会える日を楽しみにしています。」

 退院した今、私が死なないで済んだのは、実は、偶然でも悪運でもなく、家族や友人、多くの人たちの心の支援があったからだと思えてきた。

2012年6月3日日曜日

南相馬を歩く


 1980年に、イラクのサダム・フセインの野望で始まったイラン・イラク戦争。 緒戦でイラク軍は南部国境の町ホラムシャハルに総攻撃を加えて占拠した。 イランは80年代半ばに奪還したが、町は完全に破壊され、残骸の山に埋もれていた。 なぜ、そこまで破壊しつくさねばならなかったのかわからない。 1988年に、この地を訪れたとき、そこに人間が住んでいた臭いは皆無だった。

 2012年5月9日、時空瞬間移動をして、ホラムシャハルに戻っていた。 広大な土地に散らばる壊れた車両、かつて建物だったコンクリートや鉄骨の膨大な量の残骸。 物陰にさっと姿を隠すスナイパー。 いや、それは錯覚か。

 もちろん、ここはイランではない。 日本国福島県南相馬市原町区小沢。 2011年3月11日の大津波と原発汚染から1年以上。 初めて津波の破壊力を目の当たりにした。 残忍無比のサダムの狂気であろうと、その破壊力は津波の比ではなかった。 サダムは大量の重火器と航空機、戦車を投入したのに、津波は瞬間の破壊で、何も残さず忽然とすべてを消した。

 津波襲撃から、かろうじて逃れることができた高台の農家に、一人の老人がいた。 「がんばっぺ東北」と白地の刺繍がある紺色のベースボール・キャップをかぶっていた。

 なんと話しかけていいかわからないので、「その帽子似合うね」と言ったら、「こんなものやるよ、うちにまだ沢山ある、ボランティアが置いていったんだ」。 投げやりな気持ちをぶつけられた。

 そりゃそうだ、こんな帽子を被っただけで元気が出て、海水がたっぷりとしみ込んだ田んぼが元通りになるわけがない。 

 訊けば、今75歳、田んぼ一筋で生きてきた。 行政が水田の塩分除去を支援してくれても使えるようになるまで10年はかかるとみる。 そのとき85歳。 年齢を考えれば、新たな希望に自分を託すには時間が短すぎる。 老人は現実主義者だった。 広大な荒地をじっとみつめ、余生の過ごし方を模索していたのだ。

 イラン人は「美しい町」という意味の「ホラムシャハル」の名前を「フニンシャハル」に変えた。 「血の町」という意味だ。 それが多くの市民が殺された現実だった。 日本のどこかのメディアがどこかの被災地を「ゴーストタウン」と表現したら袋叩きにあった。 津波報道に死体は決して登場しなかった。日本社会の徹底した「反現実主義」。 広島や長崎が名前を「原爆」と変えなかったように、まだ「津波」を冠した市町村はない。 イラン人と日本人のあまりに異なる美学。

 被災地で老人と語るのは辛い。 南相馬市の隣り、飯館村の深谷地区は広々とした畑一面が黄色いタンポポに覆われていた。 放射能汚染で畑を耕作できなくなったためだが、その美しさに引かれて車を停め、近くの部落に足を向けた。

 すぐに、入り口でオレンジ色のジャケットを着た「防犯パトロール」2人に阻止された。 部落内に入るには役所の許可証が必要だという。 いきなり、ぶらりと許可もなく入り込もうとした我々は、胡散臭く見られた。

 防犯パトロールと言っても、20代の男性と70代の女性。 ごく普通の人たち。 プロの犯罪者が本気になれば片付けるのは簡単だ。 20kmほど離れた仮設住宅に住んでいて、当番制でパトロールに来ているそうだ。

 やっと警戒が解けて、世間話をしているうちに、老女が突然口走った。 「これから、どうしたらいいんでしょう」。 たった5分しか会話していないよそ者にぶつけた絶望の発露。

 おそらく、この年代の農民が田畑に戻ることはほぼ不可能であろう。 ガン宣告にも似た告知を彼らは受けていないに違いない。 田畑は永遠の存在で百姓一人の生涯のうちに消え去るものではなかった。

 「うちの父さんは人生のすべてが田んぼだった。 コメを作る田んぼが消えて、津波から1年以上たってもぼんやりしている」

 南相馬市鹿島区八沢浦の干拓地で会った老婆が言った。 夫は田んぼがもう返ってこないことを理解できないのだという。

 その干拓地で何台かのブルドーザーが動いているのを見た。 老婆によれば、あぜ道を取っぱらって広大な1枚の水田にする作業が始まった。 塩分の中和にはまだ年月がかかるが、若い世代が農業法人を作って将来の大規模農業を目指そうとしている。 新たな再生の動きだが、老人たちが魂を込めたコメ作りの伝統、古き良き村落共同体は形を変えざるをえないだろう。

 今、南相馬の飲食店街は活況を示している。 そして、旅館はどこも満杯だ。 何もない南相馬に落ちるほとんど唯一の現金は、復興現場で働く外部からの土木作業員たちのふところからのものだ。 住民たちは再生の気配をまだ感じていない。 だが、奇妙な復興景気は始まっている。

 感傷的なボランティアたちの善人意識とはまったく異なる論理で、この町の生まれ変わりが始まっているのかもしれない。