2011年6月21日火曜日

被災者を食いものにする東京五輪



 東京で最後に蛍を見たのは、いつだったろうか? 天の川は? 国道246号をクルマの合い間を縫って歩いて渡ったのは? 小川でメダカやヤゴを取ったのは? 畑からトマトやキュウリをかっぱらったのは? 大都会に残っていた長閑な余裕空間が消え始めたのは、1964年開催の東京オリンピックの準備が始まったころだった。

 今でこそ、あの祭典は、戦後日本の復興を象徴する歴史的イベントなどと後知恵の評価がなされているが、当時、東京の街はどこも工事だらけで埃っぽく、騒々しく、多くの人々が”国家事業”に辟易としていた。

 無論、世界最高峰のアスリートたちの肉体的美しさを目の前で見る体験は素晴らしかった。 だが、この時代は、東京が醜悪さを加速度的に深めていくのと同時進行だった。

 あの東京オリンピックがなかったら、今の日本は違う姿になっていただろうか。 おそらく、さして異ならない。 やはり、蛍も天の川も見えない東京になっていた。 それが「戦後復興」「経済発展」だった。

 なぜ、1964年東京オリンピックは開かれたのだろうか。 その開催を最も欲していたのは、太平洋戦争の惨憺たる結末で国家というものから離反していった日本人を、もう一度呼び戻し、国家の求心力を強めようと画策していた国家主義者たちだ。

 東京都知事・石原慎太郎が2016年のオリンピック招致失敗に懲りず、6月17日、その次の2020年招致に乗り出す意向を表明した。 報道によれば、石原は「大震災から立ち直り、9年後の姿を披瀝するならば、世界中から寄せられた友情や励ましへの返礼になる」と語って、「復興五輪」の理念を掲げることを示した。

 石原の表明に追随して、19日には、読売新聞と産経新聞が東京五輪開催を支持する社説を掲載した。 「復興の証しに聖火を灯したい」(読売)、「今度こそ国一丸で実現を」(産経)。 石原のこれまでの主張に近い国家主義的色彩の論調を掲げてきた、この二つの新聞が支持表明をしたことは当然であろう。

 東京は、2016年の選考では「南米初」をアピールしたリオデジャネイロに惨敗した。 そして、読売の社説は、 「東京は、なぜ五輪を開くのか、という明確なメッセージを欠いていたことが、前回の招致失敗の教訓といえよう。 ……大震災からの復興の証しとしての五輪を、という今回の主張は、各国の共感を得られるのではないだろうか」と、やや自信なさげに書いている。

 それはそうだろう。 こんな書き方では、初めに五輪ありきで、「復興の証しとしての五輪」は招致実現のための口実にすぎないことが見えすいている。 ウソをつくのが下手くそなナイーブすぎる論説委員が書いたのだろう。

 石原の招致表明にしてもそうだ。 2016年招致のとき、声を大にして主張した「地球環境の大切さを訴える五輪」には一言も触れなかった。 地球環境では十分アピールしないから、今度は「大震災からの復興」というわけだ。 「地球環境」はもうどうでもいいのだろう。

 恐ろしいことだ。 2020年の選考で東京が落選すると、東日本大震災の被害者たちも、地球環境と同様、使い捨てされるかもしれないのだ。

2011年6月17日金曜日

ドイツのもやし




 ドイツで、強い毒性を持つ腸管出血性大腸菌(EHEC)に汚染された食べ物で多くの死者が出たというニュースが伝えられた。 しばらくして、その食べ物とは「もやし」と特定されたと日本のメディアは報じた。

 「もやし」と聞いて意外と思った日本人は多いだろう。 「ソーセージとジャガイモしか食わないドイツ人」というイメージが一般的だろうし、そう言ってドイツ人をからかっても、真っ向から否定するドイツ人は少ないからだ。

 ドイツ人がもやしを食べるとすると、一体どうやって食べるのだろうか。 素朴な疑問ではないか。 取材の甘い日本のメディアは教えてくれない。

 で、東京に住むドイツ人の女友達にきいてみた。 だが、あまり要領を得ない。 ドイツ人はもともと食べないが、最近の中国料理ブームで食べるようになったのではないか、と推測するが、中国料理なら、もやしに熱を通して調理するだろう。 今問題になっているもやしは、生で食べた人が犠牲になっている。 もやしを生で食べるのはアジアでも、あまり一般的ではなく、ベトナム料理の生春巻きやフォー(うどん)など限られている。 味覚音痴のドイツ人なら生で食べかねない、などとは言わない。

 結局、東京のドイツ大使館に電話できいて、疑問は解けた。

 彼らが食べているのは、もやしであって、もやしではなかった。 アルファルファなどのスプラウト類、もやしと同じ豆の新芽だが、かいわれ大根みたいに細くて歯ごたえは、日本人の食べるもやしより、はるかに柔らかい。 サラダ用スプラウト Salatsprossen だったのだ。 これなら日本のスーパーにも売っているし、日本人もサラダで食べる。

 英語だったらsprout、和訳すれば「もやし」だが、「スプラウト」と「もやし」は似て非なるものだ。

 だが、その危険性となると、「もやし」も「スプラウト」もへったくれもなく同じらしい。

 昨年(2010年)8月、イングランドとスコットランドで生もやしとの関連が疑われるサルモネラ感染症が多数発生し、英国食品基準庁(FSA)は9月に、もやしの「調理法に関する助言」を公表した。

 ①完全な加熱調理。大きなもやしを炒め物に加えるときは数分間煮立てる②生もやしは徹底的にすすぐ③茶色に変色、あるいは異臭を発するものは食べない④使用期限を厳守⑤冷蔵庫に保管etc

 Wikipedia日本語版の「もやし」の項目にも、「豆もやしは大腸菌をはじめとする細菌が増殖しやすい食品であり、消費者が購入する時点で平均して1g当たり100万~1000万の細菌があるといわれている。そのほとんどは人間に害のない細菌だが、食中毒菌についても増殖しやすい食品であるといえる」と記されている。

 米国では、スーパーに売られているスプラウトの袋に「生で食べないように」と米国食品医療局(FDA)の忠告が書かれている(冒頭の画像)。

 それでは、日本ではどうなのか。

 近所のスーパーに行って袋を詳細に見てみると、確かに、裏に小さく、誰も気付かないように記してあった。 「必ず熱を通してからお召し上がりください」と。 いかにも、姑息な日本的手口。 東電と同じで不都合なことは目立たないようにさせる。

 1袋38円、罪のなさそうな真っ白いもやしが実は、とんでもない危険性を秘めていたのだ。

 つまり、ドイツで起きた大腸菌騒ぎが日本でも起こりうるということだ。 これまで日本で、もやしの安全性などが注目されたことがあったのだろうか。 ユッケ同様、信じて食べると殺されるかもしれない。

 もやしを沸騰した湯に軽く通すだけで、胡麻油と塩を振りかける。 しゃきっとした歯ざわりが大好きだ。 ビールにも、ワインにも、日本酒にも、焼酎にも合う 得意のアペタイザーだが、とりあえずメニューから外すことにしよう。    

2011年6月12日日曜日

ガセネタ???



 新聞記者の友人が飲みながら面白い話をした。 ネタ元の警察官が、コンビニ弁当を毎日、1か月間食べれば死んでも遺体が腐らないと言ったというのだ。 多量に使われている食品添加物・保存料のせいだという。

 仕事柄、日常的に様々な死体を目にしている警察官の言うこととなると信じてもいいかという気になったが、ためしにインターネットで「食品添加物、遺体」と検索してみた。

 すると、驚いたことに似たような話が次々と出てきた。

 「コンビニでアルバイトをしていた大学生が自宅アパートで死んでいるのがみつかった。 検視の結果、死因は心臓発作で死後3か月以上経っていた。 だが、遺体の腐敗はほとんど進んでいなかった。 彼は売れ残りのコンビニ弁当を毎日食べていたことがわかった」

 「現代人の遺体は腐りにくくなっていて、近年、葬儀で使用するドライアイスの量が少なくなっている」

 「2004年12月のスマトラ沖地震で津波に襲われたタイ・プーケット島では多くの日本人観光客も犠牲になったが、タイ人の遺体は腐るのに、日本人は腐らなかった」

 「米国で土葬された遺体は通常3か月で白骨化する。 だが、最近は2割が半年、1年、ときには2年経っても原形をとどめている」

 近年大量に使用される保存料が人間の体内に蓄積され、死んでも腐敗しない体質になってしまった、過去の共産主義国家指導者たちのように、われわれの遺体もガラスケースに入れて陳列できるというわけだ。

 保存料に代表される食品添加物というと、普通は、生きている人間の健康への悪影響が問題にされる。 だが、腐敗しない体になるなら、それ自体、悪いことではないのではないか。 夏場の葬式だって、慌てることはなくなる。 警察の遺体検視も、やりやすくなるだろう。

 だが、保存料の大量摂取で腐らない体になるなんていうのは、まあ十中八九、近ごろ流行りの”都市伝説”というやつだろう。

 代表的保存料のソルビン酸は、体内で代謝され二酸化炭素と水に分解されるそうだ。 つまり、保存料は体内に留まらない。 だいたい、古代エジプト人がえらい手間をかけて作ったミイラが、コンビニ弁当を食わせるだけで出来てしまうわけがない。

 ただ、ネットにひとつだけ立証してみる価値がありそうな話があった。 「コンビニ弁当の食材を畑の肥料にしようと肥溜めに入れたが、いつまでたっても原形を保っていた」。 保存料が代謝されるわけではないから本当かもしれない。

 今度、友人の新聞記者に会ったら、東京で肥溜めを探し出して実験してみろと言ってやろう。

 

2011年6月11日土曜日

飛行機事故って




 さる6月4日、北海道の奥尻島で、空港へ着陸しようとした小型旅客機が、地上200mのところで視界不良のため着陸を中止し、再び高度を上げたが、なぜか再び高度が下がり、地上までわずか30mのところで機長があわてて急上昇させ、滑走路への激突を回避したという。 乗客乗員13人の生死は紙一重の差だった。

 日本の新聞は、このトラブルを社会面で大きなスペースを使って伝えていた。 だが、おそらく、世界では、この程度のトラブルは毎日のように起こっているに違いない。 犠牲者が出ないから報道されていないだけだ。

 1981年のことだったと思う。 パプアニューギニアの首都ポートモレスビーから中央高地のマウントハーゲンへ20人乗り程度の小さなプロペラ機で向かった。 マウントハーゲンの飛行場は山に囲まれ、掘っ立て小屋程度のターミナルがある側を除く三方は谷底で、着陸のときは乗客もかなり緊張する。 われわれの飛行機は次第に高度を下げ、車輪が滑走路に触れたが、再び急上昇した。 そのまま着陸すれば谷底に転落することは乗客にもわかった。

 パイロットの2度目の試みで、やっと着陸し、われわれは命を拾った。 数人の外国人乗客はほっとしてターミナルに向かったが、地元の乗客たちは、もしかしたら、こんなことに慣れていたからかもしれない。 数人がかりでパイロットを操縦席から引きずりおろし、腹の虫がおさまるまで頭を小突いていた。 死んだら恨みを晴らせないのだから、このくらいやってもいいんだと、そのとき思った。

 飛行機事故の発生率は地上の交通事故よりはるかに低いというが、これまでの人生で3人の知り合いを飛行機事故で失った。 この数字は多いのか少ないのか。

 1986年、日本の外交官Oはインドネシア・スマトラ島メダンの空港を離陸した直後に落雷で墜落したインドネシア航空機に乗っていた。 Oは誰もが認めるインドネシア語のスペシャリストで、自身もイスラム教徒だった。

 1988年7月3日、イラン南部バンダルアッバスを離陸しアラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャに向かったイラン航空機が、ペルシャ湾を航行していた米海軍ミサイル巡洋艦ヴィンセントのミサイル誤射で墜落、乗員乗客290人全員が死亡した。 その死亡者名簿の中に、テヘラン駐在のパキスタン大使館武官Mの名前があった。 気のいいMは、禁酒国イランで外国人ジャーナリストたちが密かに開く飲み会に気軽に顔を出し、情勢分析を披露してくれたものだ。

 1994年11月、カイロ駐在の日本のテレビ局特派員Iは、ルワンダ内戦の取材に向かった。 当時のルワンダはフツ族とツチ族の衝突で総人口730万のうち80万以上が虐殺され、世界が注目していた。 Iは、いったんケニアの首都ナイロビに飛び、そこでセスナ機をチャーターしてルワンダへ向かおうとした。 だが、離陸まもなくセスナ機は高圧線にひっかかって墜落した。 Iは狙ったトクダネは絶対ものにしてやるという事件記者根性の持ち主だった。

 1988年8月17日には、知り合いではないが、記者会見で何度か顔を合わせていたパキスタン大統領ジア・ウル・ハクが、乗っていた軍用機の墜落で死んだ。 敵が多かったハクだけに、当時、暗殺説が根強く流れたものだ。

 これから死ぬまで飛行機に何回乗るのだろうか。 計算上、乗れば乗るほど、事故に遭遇する確率は高くなっていく。 自分だけは事故に遭わないという確固たる自信はいったい、どこから来るのだろうか。