2011年2月25日金曜日

バーレーン蜂起、ここが知りたい




 イスラム教の戒律が厳しく施行されているサウジアラビアには、酒屋もナイトクラブもない。 とはいえ、世界に酒を飲まない民族はない。 だから、飲酒厳禁だというのに、首都リヤド近郊の沙漠に行くとウイスキーの空き瓶があちこちに転がっている。 サウジ人たちは、どこかで手に入れた酒を宗教警察の目の届かない沙漠に持っていって、密やかなピクニックを楽しむのだ。


 それでも飽き足らないか、要領が悪くて酒を入手できなかった男たちはどうするかというと、週末(木曜日の夜)にクルマを飛ばして隣りのバーレーンへ行って過ごす。


 ペルシャ湾の島バーレーンとは、1986年に完成した全長25kmの海上の橋キング・ファハド・コーズウェイでつながっている。 木曜夜のバーレーン側イミグレーションは、サウジ男たちが運転するクルマでいつもごった返している。


 サウジに隣接するペルシャ湾岸の国々は、なぜかサウジとは反対に、どこも宗教的には比較的おおらかだ。 酒は飲めるし、ナイトライフも充実している。 なかでも、バーレーンは、アラブの尺度では酒池肉林の極みかもしれない。


 とはいえ、東南アジアとは比べようもないが、レストランでは、アラブ人が昼間からフィリピン人のウエイトレスを膝の上に座らせ、おおっぴらに酒を飲んでいる。 サウジ男たちは、これが楽しみで週末の長いドライブを厭わないのだ。


 今、この週末の光景はどうなってしまったのだろうか。 中東に広がった民衆蜂起はバーレーンをも揺るがせている。 臆病な日本外務省のバーレーン渡航注意喚起はまともに受け取れないにしても、サウジ人だって反王政デモが拡大するバーレーンでの夜遊びは躊躇しているに違いない。


 コーズウェイの週末混雑は続いているのだろうか、消えてしまったのだろうか。 サウジ人たちがバーレーン通いを控えているとすると、彼らの欲求不満はどこへ向かうのだろうか。


 まさか、その程度の不満が反体制運動に火を付けることはないだろうが、コーズウェイが社会的ガス抜きの役割を多少とも担っていたのも確かだ。


 BBCもCNNもアルジャジーラもNHKも、コーズウェイの現状を伝えていない。

2011年2月21日月曜日

「アラブはひとつ」は本当だった。


 1950,60年代、第3世界で反帝国主義思潮が広がる中で高揚したアラブ民族主義。 国は違えど、アラビア語、イスラム文化、アラブ人という共通性で結びつくアラブはひとつ。 大西洋からアラビア海まで、広大な地域と人をつなぐ壮大なロマン。

 だが、その夢は、イスラエルとの戦争に破れ、国家エゴが露骨に表面化し、政治指導者と大衆の意識が乖離するにつれ、色褪せていった。

 ところが、アラブ人自身も幻想と思っていた「アラブはひとつ」が忽然と現実化した。 アラブ中の民衆蜂起という皮肉な形で。 今や、蜂起のない国のほうが例外に見える。

 これはいったい、なぜなのだ。

 リビアの事態が、その「なぜ」をみつけるヒントを出していると思う。

 リビアで最初に指導者カダフィへの反旗が翻ったのは、首都トリポリに次ぐ第2の都市ベンガジだった。 かつて王国だったときの中心都市だ。 そもそもリビアは三つの王国の連合体で、全リビアの一体性は決して強くなかったとされる。 きょう21日に国営テレビに登場したカダフィの息子も、この点に言及し騒動の拡大は国家の分裂につながると脅した。

 きのう20日あたりから、カタールのテレビ局アルジャジーラは、リビアの部族の動向を伝えている。 石油を産出するベンガジ南部に居住する大部族ズワイヤ族の長は、カダフィが民主化を実行しないなら、石油輸出を停止させると表明した。

 トリポリの南一帯に居住するリビア最大の部族ワルファラの長も、「もはやカダフィを兄弟とは呼ばない」と反政府の姿勢を鮮明にした。

 こうした状況は、リビアはカダフィの強権によって支配されていたものの、統一国家の基盤は十分固まっておらず、社会は依然として伝統的な部族が中心で、国民の国家帰属意識も育ちきれていなかったことを示唆する。 

 他のアラブ諸国も多かれ少なかれ同じ問題を抱えている。 つまり、独裁者なしで国家統一を維持できなかった。 その最も典型的な例はイラクだ。 サダム・フセイン政権が倒壊すると部族の群雄割拠となり、武装した部族は米軍支配に抵抗した。 エジプトでは大都市カイロで部族社会は目に見えないが、地方に行けば伝統社会が色濃く残っている。

 ヨルダン、イエメン、サウジアラビア...。 アラブ国家はどこでも部族抜きで語ることはできない。 フェイスブックやツイッターといった最先端コミュニケーション手段が民衆蜂起の要因として注目を浴びている。 だが、その背後には、部族の長老たちのずっしりと重い存在があるに違いない。

 強権による国家統一とそこから得るもののない大多数の人々。 同じ手法の支配が続けられていたアラブ諸国には、同じように不満が鬱積していた。  フェイスブックが「王様は裸だ」とみんなに言わせた。 そして、若者たちの行動に、長老たちも頷いてみせたのだ。 

  今アラブで起きていることを、アラブの脈絡で解き明かすには、まだ時間がかかる。

2011年2月13日日曜日

美ジョガーたち











 若くして死んでしまったけれど、1988年ソウル五輪の女子100mで金メダルを獲ったフローレンス・ジョイナーは、時代を先取りしていた。 20年以上前に、近ごろの日本の美ジョガーなどが、とても敵わないファッション・センスを身につけていたのだ。

2011年2月12日土曜日

エジプト人に「とりあえず、おめでとう」


 ムバラクがついにエジプト大統領の座を手放した。 エジプトの人たちに「おめでとう」と言おうではないか。 今後の政治的展開は予断を許さないから、「とりあえず」ではあるが。

 それにしても、彼らのパワーは凄かった。 いったい、どこに隠されていたのだろうか。 ぶくぶく太ったエジプト人たちは、怠惰な生活ぶりとともに、アラブ世界の中では常に笑いの種になっていた。 もちろん、すべてのエジプト人がデブで怠け者ではないのだが。

 今週の米誌TIMEのエジプト特集記事で、名の売れた国際問題ジャーナリストのFareed Zakariaが書いている。 エジプトには、1798年のナポレオンによる侵略以来、西欧に追いつこうとし、リベラルな思想と政治の潮流が流れ続けていた。 1882年のエジプト基本法は、当時の全アジア、中東諸国の憲法の中で、もっとも進んでいたという。 Zakariaは、ここにエジプトにおける民主主義進化(深化)への希望を託す。

 これは面白い視点だ。 言われてみると、納得できる面がある。 インドネシアのスハルト独裁体制が終わったあと大統領になった卓越した宗教家・政治指導者アブドゥルラハマン・ワヒド、愛称グス・ドゥルは1960年代初め、カイロにあるイスラム最高権威アズハル大学に留学した。 彼のやや奇想天外な性格と生活ぶりにもよるが、イスラムの授業に退屈してドロップアウトし、自由な空気が流れていた当時のカイロで様々な種類の人間たちとの交流を楽しみ、自身の知的財産を形成したという。

 カイロに長く住むヨーロッパ人の老ジャーナリストは、1970年ごろの生活を懐かしんでいた。 街の雰囲気は自由で、若い女たちも美しく、ミニスカートで通りを闊歩していたという。 現在のカイロでは考えられないことだ。 政治的、社会的不満が鬱積するにつれ、人々は伝統的イスラムの生活へ回帰していった。 ミニの女は、今だったらイスラム過激派の標的にされてしまうかもしれない。

 現在のエジプト社会は腐りきっている。 教師たちは学校での授業で子どもたちにきちんと教えることはない。 まともに教えるのは、家庭教師に雇われた先だけだ。 建築業者たちは平気で手抜き工事のビルを建てる。 カイロの地震は、だから怖い。 まじめに生活するのがバカバカしい社会になってしまったのだ。 一部の特権階級、権威と結びついた者たちだけが得をする構造は、独裁政権下で地盤を固めていった。

 みんなが知っていたことだったが、声に出すことはできなかった。 それを思い切って、みんなで叫んでみたら、独裁者をあっさりと追い出すことができたのだ。

 あらためて、「おめでとう、エジプト」。

 だが、あくまでも「とりあえず」。

 ベトナム戦争でのベトナム解放、イランのイスラム革命、フィリピンのピープル革命、ソ連崩壊後の新国家群誕生、アフガニスタン、イラクへの米軍侵攻。 「歴史的転換点」と呼ばれた過去の大きな出来事の結果、誰もが幸せになれた例は、まだ残念ながらない。

2011年2月4日金曜日

エジプト、そしてムスリム同胞団


 エジプトの混乱が深まるにつれ注目度が上がっている「ムスリム同砲団」とは、いったい、どんな組織なのだろうか。 非合法とはいえ、実質的に、もっとも組織化された最大野党とあれば、同胞団抜きに、今後のシナリオは描けない。

 米国やイスラエルの不安は、彼らはイスラム原理主義者であり、政権を握ればエジプトが反米・反イスラエル・反西欧の一大国家になる可能性があるという恐れに集約できよう。 1979年のイラン革命は広範囲な国民の反パーレビ感情の高まりが原動力になったが、卓抜した宗教政治哲学者ホメイニの支持者たちがその果実を奪い、「イスラム革命」へと変質させた。 親米から反米へと180度転換したイラン革命の悪夢をエジプトでもう一度見たくはないのだ。

 だが、こうしたイランとエジプトの比較は、あまりに単純すぎる。

 オサマ・ビンラーディンのアル・カーイダと密接につながるエジプトの過激テロ組織は、穏健化したムスリム同砲団から離反していった。 根は同じでも、同胞団は今、アル・カーイダ主義を全面否定する。 彼らの活動は非常に現実的だ。 手段はテロではなく、社会奉仕活動が主体、ムバラク政権下で貧困にあえぐ大衆は、何もしてくれない国家より同砲団を頼りにする。 例えば、地震などの災害時にいち早く救援チームを組織するのも同胞団である。

 顎鬚をたくわえたイスラム指導者のイメージで同胞団幹部に会うと面食らう。 つるりとした顔で高級スーツを着こなしているのもいれば、流暢な英語でジョークを飛ばすのもいる。 

 カイロで、1928年に同胞団を創設したハサン・アルバンナの孫に会ったことがある。 弁護士で、現在の主要メンバーでもある。 みかけは、どう見てもビジネスマン。 しばらく話してから、顔を寄せてきた。 「日本から資金と技術を援助してもらえないだろうか? 組織内のコミュニケーション・システムを整備したいんだ」。 生き馬の目を抜く商売人の面構えだった。

 現在の同砲団の雰囲気を知るには、同砲団の公式ウェブサイトhttp://www.ikhwanweb.con/(英語版)を見るのがいいかもしれない。 洗練された作りで、外部世界に開かれた組織であると感じさせる。

 米国オバマ政権は非常に慎重に対応しているようにみえる。 イランで、米国が全面的に支援していたパーレビ王政が倒れたあと、イスラム勢力との回路がなかったために、ホメイニ政権が強烈な反米へと邁進するのをとどめることができなかった。 オバマ政権がその二の舞を回避しようとしているのは明らかだ。 

 だが、おそらく米国は同胞団と接触はできても、まだ信頼できるパイプは確立していないはずだ。 それでも、オバマがムバラクを見限る態度をとりつつあるのは、なんらかの手ごたえを感じたからに違いない。

 ハサン・アルバンナが同砲団を創設した1928年は、イスラム世界の盟主オスマン帝国を崩壊させた第1次世界大戦から10年後のことだった。 この間の大きな歴史的出来事は、1924年、消滅したオスマン帝国のあとに西欧型近代国家・トルコ共和国が生まれたことだ。 軍事と政治の天才ケマル・アタチュルクは、伝統的イスラム教徒が生きるよすがとしていたイスラムの価値を根本的に否定し、西欧の価値基準を導入して近代化を推進した。

 トルコ人ばかりでなく中東全体のイスラム教徒に衝撃的な変革であった。 アルバンナは、西欧化が近代化への道とするアタチュルクの考えに強い違和感を覚えた。 われわれには、われわれの道があるのではないか、という疑問が、あらためてイスラムに目を向けさせた。 同胞団運動は、こうして生まれた。 西欧化が唯一の価値だった植民地時代に、価値の多様性を主張した運動ともいえる。

 今も、その価値観は様々なイスラム運動の根本にある。 ムバラク後のエジプトにいかなる政権が誕生しようと、オバマの米国がイランの失敗を繰り返さないためには、米国の伝統である横暴・独断・押し付けを棚上げし、これまで最も苦手としていた価値の多様性を受け入れる謙虚さが、たとえ上っ面だけにしても当面は必要だと思う。 

 

2011年2月2日水曜日

悲劇の多摩川フクロウたちは耐えるしかない


 衆人環視のもとでの生活を強いられた多摩川フクロウの悲劇は、いくつかのきっかけが重なった結果であろう。 どれか一つに責任を負わせることはできないが、明らかに、きっかけの一つを作った人物を、ほぼピンポイントで特定することができた。

 哀れなフクロウたちの居場所から遠くない駅近くの商店街の熟年男性だった。

 本人に悪気はまったくなく、無邪気に色々な人に見てもらいたいと思って、新聞社に電話で通報した。 新聞は場所をぼかして、珍しいフクロウの飛来を報じたが、地元の口コミもあいまって、たちまち知れ渡ってしまった。

 新聞社に電話をした男性は、新聞が場所を明確に伝えなかったので、役所の広報課にも電話をして、問い合わせがあったら教えるようにと詳しい場所を伝えた。

 善意の人なのだ。 きっと周囲の人たちに好かれる親切なオジサンであろう。 そして、フクロウの写真を撮ろうと連日集まる人々も、動物と自然を愛する優しい心の持ち主であろう。

 フクロウたちは、かれこれ2か月も人間たちに連日覗かれながら、けなげにも同じ場所で動かずに耐えているように見える。

 そろそろ”視撃”から解放してやりたいのだが、好奇心という魔物がそれを許さないだろう。

2011年2月1日火曜日

ムバラクの命運は時間の問題


 CNNテレビは、24時間休みなくエジプト騒乱のカバーを続けている。 明らかに、独裁ムバラク体制崩壊を前提に、その瞬間を逃すまいとする報道シフトだ。

 大衆蜂起で倒された政権の例、1979年イランのパーレビ王政、1986年フィリピンのマルコス独裁、1998年インドネシアのスハルト独裁などと比較すると、ムバラクの命運は明らかだ。

 政権倒壊のプロセスがテレビのライブで歴史上初めて報道されたのは、1986年のフィリピンだった。 以来、戦争までもがライブで報じられるようになった。

 今では、現場にいる誰もが携帯電話でリアルタイムの情報を発信できるようになった。 テレビや新聞は表向きの報道の中では、「ムバラクはもう終わりだ」とは言わないが、携帯を持ってデモに参加している若者たちと同様に、「その瞬間」を、記者と機材を大動員して待っている。

 これだけ期待されると、ムバラクは去るしかない。 問題は、いつ。