2011年12月16日金曜日

幸福の国ブータンを見に行こう



 ”秘境ブータン王国”の若くてハンサムな国王と愛らしい王妃が11月に日本にやって来て、ちょっとしたブータン・ブームが起きた。 先代の国王が国民総生産(GNP)に替わる基準として提唱した「国民総幸福量(GNH)」という言葉
、国民の97%が「幸福」と回答した国勢調査の結果もすっかり知れ渡った。

 ぎすぎすした日本社会では感じられない、ほんのりとした幸せの国ブータン。 そんなイメージに現代日本人は魅かれたのだと思う。 調和のとれた伝統社会の維持、日本人に似た容貌のブータン人、日本の丹前にそっくりな伝統衣装…。 そういったことも日本人に親近感を抱かせたのだろう。

 よし、ブータンに行ってみよう。 

 早速、情報収集に乗り出してみた。 はじめは、ブータンに関する情報量の少なさに、さすが”秘境の国”と思った。 しかし、断片的な情報をかき集めていくうちに、微妙な疑問が湧いてきた。 ブータンは本当に幸福の国なのだろうかと。

 最初に調べたのは、東京から首都ティンプーまでの航空券だった。 東京からの直行便がないのはわかっていた。 

 あらためて秘境と思ったのは、ティンプーに飛ぶフライトはブータン国営Drukairだけと知ったときだ。 しかも、この小さな航空会社の飛行機は、タイのバンコク、バングラデシュのダッカ、ネパールのカトマンズ、インドのコルコタ、デリーの5都市からのルートしか持っていない。 このことは、旅行者に大きな経済的負担を強いることを意味する。

 1つの航空会社が独占するルートでは、ディスカウント料金はなく、正規料金を払うしかない。 とりあえずバンコクまで格安チケットで行っても、その先、ティンプー往復には760ドルがかかる。

 さらに驚かされたのは、ブータンには公定料金によるパッケージツアーしかないということだ。 この料金が1日200ドル。 ホテル、食事、クルマ、ガイド代などが含まれるが高額であるのは間違いない。 専門の旅行会社に申し込んで、アレンジをしてもらう。 南アジアで一般的なバックパッカーの貧乏旅行は締め出されているのも同然で、実質的に金持ち観光客だけを受け入れているといえる。

 ただ、フライトの制限、高い公定料金は、外国人観光客の急激な増加を抑制し、伝統文化への悪影響を極力少なくするという効果はあるだろう。 その意味では、近代化=西欧化のマイナス面を抑え、伝統を守って幸福社会を作っていくという国是には悪くない。

 だが、本当に、こんな国是の維持は可能なのだろうか。 ブータンはとうの昔に鎖国状態から脱し、今、われわれと同じグローバル化した世界の中にいるではないか。 首都ティンプーには、インターネット・カフェもあり、世界の情報はテレビからも入ってくる。 携帯電話も今や珍しくない。 街では、コカコーラも、タイのシンハ・ビールも、日清のカップヌードルも売っているそうだし、ゴルフ場だってあるそうだ。

 ここに掲載してある2枚の画像はウェブ上でみつけたものだ。 日本で見慣れている若者たちの姿と変わりはしない。 男の子たちは街頭でヒップホップ・ダンスに興じている。 伝統衣装のブータン人というイメージとは、あまりにかけ離れているではないか。 そう、「秘境」を期待してブータンに行くと失望するかもしれないのだ。

 もちろん、ヒマラヤの山懐に位置し、交通不便な僻地なのだから、古い伝統が他の国より保たれているのは確かだろう。 だがブータンに行くなら、「幸福の国」というユートピア幻想にとらわれず、ちょっと変わった発展途上国に行く、といった程度の期待感におさえておいた方がいいかもしれない。

 ブータンという国は民族的に複雑で、先住ブータン人、チベット系、ネパール系、その他の少数民族が混在し、言語も異なる。 先代国王は1989年に、「民族衣装着用、チベット系のゾンカ語の習得、伝統的儀礼・作法の遵守」を国民に義務付ける布告を出した。 ブータン人のアイデンティティ確立を目指した施策だが、ネパール系住民が強く反発し、90年代には激しい反政府運動へと発展した。 当時、多くの住民が難民としてネパールへ流出した。

 隣接するインドのアッサム州で独立闘争を続けるアッサム統一解放戦線やアッサムの先住民ボド族過激派・ボド防衛軍の存在もブータンの治安を悩ませているらしい。 ブータン国内を聖域にして対インドの活動を続けているからだ。

 首都ティンプーの人口は急増しているという。 このことは、農業主体のブータン社会の変貌が進行しつつあることを意味するだろう。 そして、都市人口の増大とは、経済発展をしてきた国が必ず経験する現象であり、貧富の格差、社会的不満を生み、やがては政治的変革を必要とする。

 いずれの事象も、アジアの途上国では、ごく当たり前のことだった。 それを乗り越えて、国の体裁を作ってきた。

 西欧化に対抗し、新しい価値を生み出そうとする運動にはロマンがある。 だが、アジアでは、西欧化ではない理想社会の建設は好ましい結果を生み出してはいない。

 カンボジアのポルポト一派は西欧の臭いを消し去ろうと自国民に対する未曾有の大虐殺へ突き進み、結局地上から消えた。 独裁者パーレビの極端な近代化=西欧化への反逆で生まれたイランのイスラム国家は世界から孤立し、いまだに行く末が定まらない。

 ブータンの試みは、もっと穏やかな道を模索しているのだろう。 ブータン旅行とは、そのプロセスの観察といったところか。 それにしても、もっと安くならないのか。

2011年12月14日水曜日

Merry Christmas!?!?



 3か月前、9月9日付けで、島根県・津和野で知った明治のキリスト教徒弾圧「浦上四番崩し」を取り上げた。 だが、これは、決して誰もが知らない歴史事実ではない。 ウェブで検索すると、かなりの情報を得ることができる。 おそらく、浦上をはじめ多くの隠れキリシタンが住んでいた長崎県や、弾圧の現場となった山口県では、よく知られていることなのだろう。 観光で訪れた人、キリスト教徒なども耳にしていたに違いない。

 だが、たいていの人は、明治になってからもキリシタン禁制が続き、残酷な拷問が継続していたことを知れば驚かされる。 徳川幕府の鎖国政策と軌を一にしてキリスト教が禁止されたことは誰でも知っている常識だ。 その同じ常識で、明治の開国とともに、キリシタン禁制は解除されたという思い込みにつながっていた。

 そもそも学校教育の場では、キリシタン禁制がどのように終結したか教えているのだろうか。 3か月前から気になってしかたなかったので、近くの都立高校に行って、日本史の教科書をみせてもらった。 すると、驚いたことに、短いが、かなり正確に記述されていたのだ。

 <以下、改訂版 詳説 日本史B(山川出版社)からの抜粋>

 「キリスト教に対しては、(明治)新政府は旧幕府同様の禁教政策を継続し、長崎の浦上や五島列島の隠れキリシタンが迫害を受けた。しかし、列国の強い抗議を受け、1873(明治6)年ようやくキリスト教禁止の高札が廃止された」

 「浦上のキリシタンは、1865(慶応1)年、大浦天主堂の落成を機に、ここを訪れたフランス人宣教師に信仰を告白して明るみに出た。しかし、明治政府は神道国教化の政策を取り、浦上の信徒を捕らえ、各藩に配流した(浦上教徒弾圧事件)」

 だが、これだけでは、キリシタン禁制がいつ、どのようにして終ったのか、という問いに答えてはいない。 この教科書では、明治6年にキリスト教禁止の高札が廃止されたと記述しているが、あくまでも道端に立っている高札がなくなったというだけで、キリスト教禁止が解除されたとは言っていない。 まさに、それが事実だからだ。

 それでは、禁止がなくなったのはいつなのか。 先達の歴史研究によれば、明治政府はキリスト教解禁を公式にはまったく表明していない。 高札廃止で、なし崩しにキリスト教を認めて、列強の抗議に応える一方、明治政府は自分たちのメンツを保ったのだ。 日本の政治家や役人の姑息な手口は今に始まったのではないことがよくわかる。

 明治以来、日本政府はいまだにキリスト教解禁を表明していない。 つまり、キリシタン禁制は公式には今も続いているということになるのか。 そうはいかないらしい。 研究者たちは、明治22年、「信教の自由」を謳った大日本帝国憲法の発布を以って、キリシタン禁制が正式に終結したと解釈する。

 そして、今年も、もうすぐクリスマス。 今では、この時季だけ日本人は総キリシタンになる。

 <この記事に関心を持った人へのクリスマス・プレゼント・リスト>

 「浦上四番崩れ―明治政府のキリシタン弾圧」  片岡弥吉 著 ちくま文庫、 「浦上四番崩れ―詩集」               上村 馨 著 山口書店、 「津和野の殉教物語―乙女峠 」 永井 隆 著 中央出版社、 「最後の殉教者」                    遠藤周作 著 講談社、 「女の一生 一部・キクの場合」 遠藤周作 著 朝日新聞社、 「岩倉使節団における宗教問題」 山崎 某 著 思文閣出版 

 






2011年10月30日日曜日

川端康成 vs RKナラヤン

 10月29日、心地よい秋の土曜日の午後、鎌倉で、米国の著名な日本文学研究者ドナルド・キーンの講演会が開かれ、顔を出してみた。 キーンの著作など読んだこともなし、関心はなかったが、先輩ジャーナリストの高木規矩郎がコーディネーターをやるというので行ってみる気になった。 話の内容は、場所が鎌倉ということで、鎌倉にまつわる話題が中心になった。

 その中で、ひとつ興味を引くエピソードがあった。

 いつのことかわからないが、川端康成が存命中のことだから、1972年より以前のことだ。 日本を訪問したインド人の作家が、キーンに日本の作家を紹介して会わせてほしいと頼んだ。 そこでキーンは日本の作家何人かに接触したが、「インドは嫌いだ」とか「インド人と共通の話題はない」といった理由で断られた。

 そして、やっと会えることになったのが、川端だった。 キーンは、さらに、そのインド人作家の名前は、ナラヤンだと言った。 ナラヤンといえば、世界的に有名でノーベル文学賞の呼び声もあったRKナラヤン(1906~2001)だ。
 
 人知れず、川端の自宅で、キーンの通訳によるノーベル賞作家vsノーベル賞候補作家という超豪華対談が行われたのだ。
 
 このエピソードに惹かれたのは、豪華な顔ぶれというだけではない。 川端以外の日本の作家たちが、ナラヤンに会おうとしなかったことが、当時の小説家ばかりでなく、日本人の精神的方向性を如実に示していると思ったからだ。

 作家たちは欧米からの訪問者だったら会ったに違いない。 彼らは”遅れた”アジアなどに、まったく関心がなかったのだと思う。 おそらく、大作家ナラヤンの存在すら知らなかったであろう。

 キーンは、このときの会合について、岡倉天心の名言「アジアはひとつ」は信じないが、二人は言葉が異なっても大いにわかりあうことができたと語った。

 「アジアはひとつ」は、大東亜共栄圏という妄想と野望の背後にあるアジア主義を象徴する言葉だ。 大東亜戦争の破滅的敗北でアジア主義は光を失ったが、それとともに、日本人はアジアへの関心そのものも無くしていった。(現在の韓流ブームやインド人ITエンジニアの急増からすれば大昔のことにも思える)

 キーンの言葉は、取りようによっては、当時の日本人作家の知的関心の偏りに対する大いなる皮肉だ。 いつもニコニコして日本人に口当たりのいい彼の言葉を、こんな風に解釈した聴衆が他にいたかどうかは知らない。
 
 ついでに加えれば、キーンがインド人だったら、日本人が彼を尊敬し、その言葉をありがたがったかどうか、確信は持てない。
 (写真はRKナラヤン)

2011年10月28日金曜日

深刻なのは本当だが、洪水報道は?

 この画像を見てもらおう。 ThaiTravelBlogos.com というサイトの画像。 タイの洪水は首都バンコクを包囲し、10月28日からは、市中心部をも水浸しにしようとしている。 その状況をタイ王国で最も神聖な場所、王宮近くで報じているタイのテレビ局クルーの姿を撮ったものだ。
 このブログによれば、テレビ・クルーたちは、道路が乾いている部分がいくらでもあるのに、その周辺で、最も水の多い場所で現場リポートをやっていた。 確かに、この画像の後ろの方には、乾いた路面の部分がみえる。 このブログが言いたいことは、メディア報道をまともに信じるなよ、ということだ。
 ニュースメディアというものは、状況をわかりやすく伝えるために、多少の誇張をすることを常とする。 それは必ずしも全面否定すべきものではない。 なぜなら、視聴者や読者がその報道を通じて、現状を理解できるなら許されていい(ヤラセ報道は別だ)と思うからだ。 無論、こうした誇張には限度があるべきだ。
 それにしても、このブログの問題提起には考えさせられる。 日本でも、タイの洪水は連日大きく報道され、大変な事態になっていると信じられている。 現地も見て、日本のテレビを見ると、そこにウソがあるわけではないと思う。 ただ、それでも多少の誇張があることは否定できない。
 まあ、情報というものは、昔から同じだったのかもしれない。 現代の問題は、日常生活では絶対に肉眼で見ることがない地球の裏側の出来事まで知っている必要があることだ。

2011年10月25日火曜日

真水の津波がひたひたと忍び寄る

               (多くの住民はまだ逃げていない=ドンムアン地区で)

               (土嚢を積んで洪水に備える=ドンムアン地区で)              
 タイの洪水は徐々に首都バンコクの包囲網を縮めている。 既に水に浸かったバンコク北方の古都アユタヤとパトゥムタニの工業団地では、数千の工場がダメージを受け、日系企業では少なくとも400工場が浸水の被害を受けたとされる。 


 水はゆっくりとだが確実にバンコクへ接近している。 「まるで真水の津波だ」と、あるタイ企業の経営者は言った。 チャオプラヤ川から溢れる水は、津波のような劇的な凶暴性はみせない。 だが、静かに、そっと忍び寄り、シロアリのように国家のインフラを食い尽くす。 結果的には、今年日本を襲った大津波並みの被害を残すのではないかと、タイのメディアや政治家、企業家、専門家は憂慮する。

 今、バンコク中心部でも、洪水の到来に備え、建物の入り口に土嚢が積まれている。 あと1か月もすれば乾季に入る。 果たして洪水はバンコク中心部にたどり着くのか、あるいは、乾季入りで水が引くのか。 まったく予断を許せない。 スーパーやコンビニの棚からは、日本の3・11直後と同じように、ペットボトルの飲料水やトイレットペーパーが消えた。

 とは言え、人々はごく普通に生活しているようにみえる。 中心部から北へ約20km。 旧国際空港のあるドンムアン地区には既に洪水が広がっている。 主要道路でも、深いところでは人の膝まで水に入る。 街にめぐらされた用水路の水位も、もちろん上がったが、多くの魚も入り込んできた。そのせいで、釣り糸を垂らしたり投網を構える人の姿があちこちで見られる。 あっけらかんと洪水を楽しんでいる。

 ゴム長が飛ぶように売れ、小商人はここぞとばかり金儲けをしている。 タイでは当局が土嚢を用意してくれるわけではないから、土嚢売りも今がチャンスだ。 タイの食文化の大きな部分を占める屋台は足が水で濡れるくらいでは、決してめげない。 いつも通りにトリや魚を焼き、バナナを揚げている。

 生活が多少不便になっても、彼らの「マイペンライ」つまり「どうにかなるさ」精神は、こういうときこそ、したたかさを発揮するのかもしれない。

 だが、本当に大丈夫なのだろうか。

 50年ぶりの大洪水というが、50年前のタイでは今回のような経済的打撃はありえなかった。 当時のタイには現在のような近代的工業生産はほとんど存在しなかったし、被害は農業にほぼ限られていたからだ。 タイの経済専門家は、今回の洪水がバンコクに達すれば、被害は少なくとも3000億バーツ(約7500億円)に達し、GNPを3%ほど引き下げると試算している。 

 急速な経済発展で産業構造が一変したタイは国家のかたちが50年前とまったく異なってしまった。 かつて降雨を吸収していた湿地は農耕地になり、森林は切り開かれ町になった。 インフラ整備なしの発展とは、まさに砂上の楼閣だった。 それを”真水の津波”が突き崩そうとしている。 タイが、過去に経験したことのない歴史的出来事に遭遇しているのは間違いない。

 だが、それも、とりあえずは天気次第だ。 タイの専門家たちは、タイの国際的信用を回復するには、長期的視野に立って、洪水に太刀打ちできるインフラ整備に着手すべきだと主張する。 まったく、その通りであろう。 ただ、短期的には、国王と国民が一丸となって乾季が早く到来するよう仏陀に祈るしかないようにもみえる。

 (The Yesterday's Paper タイ洪水取材チーム=バンコク)

2011年10月16日日曜日

笑えるミャンマー



 頑迷に民主化を拒否し、世界から孤立している軍政国家ミャンマー(ビルマ)が、突然、急激な変化の兆しをみせている。 民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーとの会話を深め、民意に反して建設していた中国向け電力供給のためのダム建設を中断し、さらに、10月12日には政治犯を含む6359人の釈放を開始した。 果たして、本気で民主化に着手したのか。 あまりに唐突な動きゆえに、世界は戸惑っている。 

 12日に釈放された政治犯の中で象徴的人物は、ビルマで絶大な人気のあるコメディアン、ザガナーだった。 ザガナーは2008年、ビルマを襲ったサイクロンの甚大な被害への支援活動をしていたときに逮捕され、獄中生活を送っていた。

 ザガナーの釈放は日本でも大きく報道された。 だが、釈放の事実以上のことは伝えられていない。 実は、彼は釈放されるや否や、コメディアンの本領を発揮し、自分の体験をしゃべりまくっているのだ。 その発言を通じて、われわれ外部世界の人間は、ビルマ軍政のなんたるか、呆れるほどの時代錯誤ぶりを、多少なりとも理解することができる。 以下は、ザガナー発言の一部である。

 「ビルマを襲ったサイクロンのビデオを検閲に出さなかったことを罪に問われた。 サイクロンの被害が拡大している真っ最中だ。 『ヘイ、嵐よ、ちょっと待ってくれ。 ビデオを検閲に出してくるから』なんて、言えるわけないだろ」

 「罪状には、インターネットの使用もある。 今や誰でもインターネットを使っている。 しかし、私に判決を下した裁判官はインターネットのことなんか、まるでわかっていなかった。 彼が、反政府側の人物とどこで会話(チャット)をしたのか訊いたので、Meebo(ビルマ語で台所、ウエブサイト名でもある)と答えた。 すると、彼は私がふざけていると思って怒りだした。 私は、Meeboのなんたるかを説明しなければならなかった。 コンピューターの使い方を知らない裁判官が、エレクトロニクス条例インターネット不正使用の罪で私に懲役刑を下した」

 「裁判では、検事がe-mailアドレスを質問したんで、私が、thura61@gmail.comと答えたら、なんと、その検事は、『質問したのはe-mailで、gmailではない !』と怒鳴りだした」

 (ニューデリーを拠点とするビルマ反軍政ウエブサイト<MIZZIMA>より)

2011年10月7日金曜日

”AKC” の提案



 「AKBって、ションベン臭い女の子が群れて、歌ったり踊ったりしているのがあるだろ」

 「オレだって、そのくらい知ってるさ」

 「じゃあ、AKBが何の頭文字がわかるか」

 「バカにすんなよ、アカンベーに決まってるだろ」

 「さすが! オマエは意外と物知りだな」

 「それじゃあ、AKCは知ってるか?」

 「初めて聞いた、赤ちゃん、A・Ka・Chan てのはどうだ?」

 「惜しいけど、違う! AKCってのは、A・ka・Chouchin、赤提灯の頭文字だが、それだけじゃない」

 「なんだよ?」

 「近ごろ、夜の巷ではAKCが新しい通貨単位になりつつあるんだぜ」

 「なんだそりゃ!」

 「1AKCは円換算で、だいたい4000円、つまりノンベエのオヤジが赤提灯で酔っ払ったときの平均的飲み代ってわけだ」

 「なるほど…」

 「例えば、この店はお手ごろでAKC以下だ、寿司屋で飲んで2AKCならまあまあ、っていう使い方だ。 最終電車を逃すとタクシー代は、あっという間に1AKCを超えてしまう」 

 「そうかあ、オレの月収は80万だから200AKC、つまり赤提灯200回分ということだ」

 「ノンベエにはわかりやすい単位だろ」

 「まあな、しかし、AKCなんてのがホントにはやっているのかね?」

 <東京のある赤提灯で耳にしたオヤジたちの会話>

2011年9月9日金曜日

格安ツアーの発見




 新聞に出ていた旅行社の広告で、山口県の萩温泉3泊4日3万円という格安ツアーをみつけた。 東京からの飛行機代も含まれるから、すごい安さだ。 山陰地方には行ったことがなかったので、躊躇なく申し込んだ。 

 羽田から島根県の萩・石見空港に飛び、空港からレンタカーで旅を始めた。 津和野、萩、秋芳洞といったところを4日間でまわった。 東京近辺にはない静かに落ち着いた地域の雰囲気を3万円で味わえたのは儲けものだった。

 ただ、この小旅行で最も印象的だったのは、日本のキリスト教弾圧史の一端を教えてもらったことだった。 こんなことも知らなかったのか、と惨めな気持ちにもさせられたといったところか。

 以下は、津和野の「津和野カトリック教会」に展示されていた資料を書き写したものだ。

           ***************


  1 キリスト教が禁止される

 フランシスコ・ザビエルが日本に初めてキリストの福音を伝えてから65年後、キリスト教徒の数は30万人に達していました。 ところが、1614年に徳川幕府初代将軍家康はキリスト教を禁止し、すべての宣教師を国外に追放しました。

 「おまえたちは間違った宗教を教えている。天照大神と天皇が神ではないと言っている。キリスト教は日本の宗教ではない。直ちに日本を去れ。日本人は皆、この邪教を捨てなければならない」

 しかし、神父の中には日本にとどまり、密かに宣教活動を続けた者もいたので、キリスト教はなおも広がり続けました。 「天と地の造り主とその御子イエス・キリストだけが神なのです。決して異国の神ではありません。世界中の人々の神なのです」

  2 恐ろしい迫害

 3代将軍徳川家光(1623~1651)は、キリスト教を日本から消し去ってしまおうと決心しました。 将軍は、ありとあらゆる残酷な拷問によって、何千人ものキリスト教徒を苦しめ、迫害しました。 拷問に耐え切れず、大勢のキリスト教徒が信仰を捨てました。 また、山奥や人里離れたところに身を隠した者もたくさんいました。

 日本はついに1639年に国を閉ざしてしまい、宣教師が入国できなくなりました。日本に入ることも日本から出ることもできなくなったのです。 こうして鎖国時代が始まり、250年間続きました。 日本中の村という村では、キリスト教禁止と、隠れキリシタンをみつけたものには褒美が与えられると書かれた高札が掲げられました。

  3 浦上の隠れキリシタン

 鎖国時代、現在の長崎県の浦上のような小さな村々では、隠れキリシタンたちが、キリストへの信仰を守りとおすために力のかぎりを尽くしました。 聖書も、教会も、ミサもなく、司祭もいないので、それは困難を極める歩みでした。 みつかれば、投獄、拷問、そして死さえ覚悟しなければなりません。

 「神父様がいてくれたら…。ミサにあずかりたい。キリスト様が今、ここに来てくださらないものか」 「神父様はきっとまた来てくださるとも」 「そうだ。最後に来てくださった神父様が約束なさったではないか。いつかまた神父様の来られる日が必ず来ると…」

  4 信仰を育む

 十字架や聖人の絵や像を家に持つことは禁じられました。 キリシタンたちは表向きは阿弥陀観音像を祭りましたが、それをマリア観音と称し、その像の裏に十字架を刻んだりしました。 また密かに集まって、一緒にロザリオの祈りを唱えたりしていました。

 それぞれの村では、信仰を伝えていくための組織ができあがりました。 張方(指導者)は教会暦を伝え、教え方(先生)は祈りや大切な教えを伝え、聞き方(伝令)は各家に教会の祝日や断食の日を伝え、水方は赤子に洗礼をさずけたり、また若い後継者に水方の仕事を伝えていきました。

  5 黒船の到来

 ロシアやアメリカの捕鯨船は、水や食料、燃料を補給するために北海道への寄港を望みましたが、許されていませんでした。 そこでアメリカのペリーは、1854年に海軍を率いて日本に開国を迫りました。 1858年7月にはアメリカ領事タウンゼント・ハリスが通商条約を結ぶためにやってきました。

 「ハリス領事様、幕府はアメリカ船が江戸、大阪、兵庫、新潟、神奈川の港に寄港することを認めます」 「それに加えて、わが国の外交官が江戸に滞在することも認めていただかねばなりません」 「承知しました」 「また外交官とその家族のために、神父が滞在することも認めていただきたい」 「よろしい。しかし日本人にキリスト教を宣教することはなりません」

  6 カトリック教会の建設

 まもなく、英国、ロシア、オランダ、フランスも日本と通商条約を結びました。 このようにして、鎖国時代は終わりを告げました。

 鎖国時代が解かれ、外国人が入国を許されるようになっても、キリスト教は相変わらず禁止され、みつかれば死罪になりました。 江戸時代末にフランスは幕府に、フランス人のために教会を建てることを願い出ました。 許可が下り、1862年横浜に初めてキリスト教の教会が建てられました。 物見高い民衆は、「フランス寺」が建つのを一目見ようと集まってきました。 だが一人として教会に近付こうとしませんでした。

  7 キリシタンの発見

 長崎には1865年、大浦に天主堂が完成し、献堂から1か月たった3月17日、浦上の隠れキリシタンの一団が天主堂を訪れました。 人目をしのぶようにそっとやって来ると、お祈りをしていたプチジャン神父に近付き、たずねました。 「サンタ・マリア様の像はどこ?」 プチジャン神父は、祭壇わきに安置されている聖母マリア像を指さしました。 彼らは互いに顔を見合わせ、あふれるほどの喜びを表しました。

 「本当にサンタ・マリア様じゃ、ほら幼子のイエス様を抱いておられる。 神父様、わたしどもはあなた様と同じ心でございます」 「わたしどもの村に住む者のほとんどもキリシタンでございます」

 これを聞いたプチジャン神父の心は感謝と喜びでいっぱいでした。 250年以上の間、みつかれば死罪になる危険を冒して、信仰を守りとおしたのです。 聖書も神父もミサもない状況の中で、イエス・キリストへの信仰が受け継がれていたのでした。

  8 待ち受ける迫害

 長い鎖国時代を通して、浦上のキリシタンは3度にわたり捜査、迫害を受けました。 1790年、1840年、1856年の3回です。 そのため、宣教師たちはきわめて慎重に行動しました。 しかし、あるキリシタンの女性が亡くなったとき、遺族は仏教による葬儀を拒否し、僧侶を呼びませんでした。 「わたしどもはこれからもお上に忠実に従いますが、今後お寺さんのお世話にはなりません」

 「今後、お寺と関わりたくない者をとりまとめ、名簿を差し出せ」 そこで700名の名簿を差し出したところ、役人の頭は大いに腹を立てましたが、そのときは何の処罰もありませんでした。

  9 浦上に手入れ

 1867年7月14日深夜、突然、300人ほどの警吏が浦上の谷一帯を手入れし、68人のキリシタンが逮捕されました。 結局、83人が投獄され、信仰を捨てさせる目的で厳しい拷問にかけられました。 その1人というのは、年老いた百姓の高木仙右衛門でした。

  「みんな転んだぞ。なぜおまえは意地を張るのだ」 「信心を捨てることは、神様からいただいた魂にとっても、神様に対しても、この上ない不幸を働くことですから、申し訳ありませんが改宗はできません。100人の仲間がいるから強いとか、1人になったから弱くなるということはありません。私1人になっても、本来の心は消えません」 「ならばもう改心せよとは言わぬ。おまえは、たとえ最後の1人となろうとも主人に仕えるという真の武士の魂を持っておる。帰ってもよろしい」

 仙右衛門が帰ると、他の者たちがたずねました。 「よくもあんな厳しい拷問に耐えられたものだな」 仙衛右門は答えました。 「私は自分がそれほど強くないことを知っています。だから聖霊に祈って助けを求めました」

 そこで他の者たちも祈ってから役人のところへ行きました。 「私どもは教えを捨てたことを取り消します。 私どもは今でもキリシタンです」

 「江戸の決定を待て」と言われました。

  10 東京における決定

 264年続いた徳川幕府は力を失い、とうとう1867年11月に最後の将軍が退位しました。 天皇が復権し、1868年1月1日、明治時代が正式に始まりました。 しかし、キリスト教は相変わらず死罪に当たる邪教として禁じられ、さらに多くのキリシタンがみつかりました。 その後は浦上だけでも3000人を超えました。

 「この邪教の信者をどのように扱えばよいのだろうか」 「法律に従って処分すべきだ。死刑にしてしまえ」 「たかが3000人だ。目をつぶってもよいではないか」

 そして、津和野の亀井藩は1つの妥協案を出しました。 「その3000人を少人数に分け、それぞれを各地に分散させてはどうだろうか」 「それは良い考えだ。少人数に分けられ、故郷から遠くへ流されたら、きっと異国の宗教を捨てるにちがいない」

 このようにして浦上の信者3000人は20組に分けられ、各地に送られたのでした。

  11 津和野へ

 高木仙右衛門と守山甚三郎を含む28人のキリシタンは、中国山地の奥深くにある津和野に流されました。 彼らは、使われなくなった寺に閉じ込められ、しつこく説得されました。 亀井藩士盛岡は甚三郎に言いました。

 「われわれは目に見える太陽を拝む。太陽は道を照らし世を明るくする。おまえたちは、なぜ目に見えない神を拝むのだ。そのようなばかげたことをやめ、神道を信じなさい」

 「お役人様、おわかりいただけるかどうかわかりませんが、たとえばあなた様が御用のため遠い田舎につかわされたとしましょう。用を終え帰路につきましたが、日はどっぷりと暮れ、あたりも暗くなってきました。田舎道で3歩先も見えません。1人の百姓があなたの困り果てている様子を見て、明かりをともして言いました。『どうぞこの明かりで道を照らしなさいませ』 明かりのおかげであなたは無事家にたどり着くことができました。さてあなたは明かりを台座に置き、明かりに感謝し、明かりを拝むでしょうか。むしろ明かりを貸してくれた百姓に感謝するのではないでしょうか。あなたは私に道を照らしてくれる太陽を拝めとおっしゃる。しかしわれわれキリスト教徒は太陽を造り、これを大空にすえて世を照らしてくださる神に感謝し、神を拝むのです」

 「牢屋に戻れ。この愚かな百姓め」

  12 水と火の試練

 牢屋がわりのお寺の裏には、深さが1mはある池がありました。 その年の冬は、1か月以上もの間雪が降り続いたので、池には氷が張り、雪が積もっていました。 そんな日に役人の盛岡は、信者の主要人物2人を丸裸にして、氷の張った池に投げ込みました。 寒さにふるえ、息もできずにあえぎながら、仙右衛門と甚三郎は主の祈りを唱え、「主よ、おささげします…」と祈り始めました。 役人たちは冷たい水を彼らに頭から浴びせました。 年長の仙右衛門がいよいよ力を失い、池に沈みそうになると、役人たちは竹の先につけたかぎで髪の毛を引っかけて、2人を池から引き上げました。 そして「おまえたち、さぞ寒かろう」とからかいながら、彼らを火であぶりました。 半死半生の状態で彼らは牢屋に戻されました。

 後に、甚三郎は「あの時の水と火で責められたことほど苦しかったことはない」と書いています。

   13 最初の殉教者、和三郎

  役人たちはキリシタンをいくら説得しても、信仰を捨てさせることができませんでした。 それで彼らはますます強硬な態度で信者たちを責めました。 食料を減らされ、秋が来て、冬が近付いても、夏用の薄手の着物のままでした。 そのため体がどんどん衰弱し、16人が信仰を捨てましたが、他の者は踏み止まりました。 役人たちはさらに残酷な三尺牢という拷問を考えつきました。

 この悪名高い牢屋は、たて横約1mで、正面に格子がはまっている頑丈な作りの箱です。 キリシタンはこの箱に1人ずつ閉じ込められ、雨ざらしのまま寒さと飢えと孤独に耐えなければなりません。 その中に閉じ込められているかぎり、横になることも立ち上がることもできません。 食事は1日におにぎりたった2つです。

 この三尺牢に最初に閉じ込められた1人が27歳の和三郎でした。 彼は20日間閉じ込められ、衰弱して1868年10月9日に亡くなりました。 最初の殉教者になったのです。

  14 安太郎と聖母

 キリシタンの中に30歳になる安太郎という青年がいました。 彼は物静かでしたが、明るく、心の広い人でした。 わずかな食物をほかの人と分かち合い、人のいちばん嫌がる仕事をひきうけたものでした。

 その年の冬、安太郎は三尺牢に入れられました。 2,3日たった日の夜に、仙右衛門と甚三郎はお寺の床を破り、こっそりと抜け出して安太郎の様子をうかがいにやってきました。 「寂しくないか」

 「いいやちっとも寂しくなんかありません。毎晩、真夜中になると美しい婦人が来て、すばらしい話をしてくださいます。青い服を身にまとい、まるで長崎の教会にあるサンタ・マリア様の像のようなおかたです。しかし、このことは私が生きている間は誰にも言わないでください」

 「もしおまえのお母様にお会いすることができれば、何と言えばよいだろうか」

 「この三尺牢は十字架だと思います。母に伝えてください。ここでイエス様のために、またイエス様とともに死ねるのは私にとってこの上ない幸せですと」

 2人は密かに寺に帰り、マリア様が安太郎に現れたことをすぐ皆に伝えました。 皆は、このことを聞いて勇気づけられました。 数日後、雪に埋もれた三尺牢の中で安太郎は死んでいました。

  15 流刑の仲間たち

 1870年、女性と子どもを含む浦上キリシタン最後の一行が各地に送られました。 津和野にはそのうちの125人が送られましたが、その中には甚三郎の父と姉のマツと2人の弟がいました。 後から来た者たちを収容するために仙右衛門と仲間たちは他の場所に移されました。 甚三郎は考えました。 「役人たちは新しく来た者たちに、われわれがキリストへの信仰を捨てたと言うに違いない。彼らが騙されないようにしておかないといけない」 そこで彼は炭を砕いて粉にし、さらに唾でこねて墨を作って書きました。 「われわれはキリストへの信仰を捨ててはいません。皆さんも踏み止まってください」 彼はそれを便所に隠しておきました。

 本当にその通りでした。役人たちは新たに連れてこられた者に言いました。「前に来た者は皆改心したぞ、おまえたちもそうする方が利口だぞ」 それを聞いて彼らは皆動揺しましたが、マツが弟甚三郎の残した書き付けをみつけて皆に告げると、動揺はいっぺんに喜びに変わりました。

  16 新しい作戦

 その年の冬の寒さはことのほか厳しく、飢えのために多くの人が亡くなりました。 3歳の清次郎が明くる1871年1月23日に亡くなり、この年の最初の犠牲者となりました。 11月24日までにはさらに多くの犠牲者が出ました。

 亀井藩士盛岡は、指導者の甚三郎さえ信仰を捨てさせることができれば、あとの者も彼に続くだろうと考えました。 水や火で責め立てても信仰を捨てさせられないとわかると、盛岡は新たな方法を思いつきました。 「彼には14歳の弟祐次郎がいる。弟思いの甚三郎が信仰を捨てるまで祐次郎を苦しめてやろう」

 そこで11月の初めに盛岡は祐次郎を裸にし、道端に立てた十字架にくくりつけました。 村人たちがやって来てからかい、竹の棒でつつきました。 「キリストを捨てろ。このキリシタンのばか者め」 しかし、祐次郎はいつもただ一言答えるだけでした。 「いやです」

  17 祐次郎の試練

 それから盛岡は祐次郎を十字架から降ろさせ、お寺の縁側に座らせました。 服をはぎ、柱に縛りつけ、容赦なく鞭で打ちました。 うめき声と泣き声が祐次郎の口からもれましたが、「キリストを捨てろ」と迫る役人たちに対しては、いつも「いや、捨てません」と答えました。

 まる2週間、祐次郎は飢えと寒さと容赦ない鞭打ちに耐えました。 体はあざだらけになり、死の近いことがわかりました。 盛岡は少年が死んでしまうのではないかと心配になり、後悔の念におそわれました。

 「自分は、はたしてこれで人間だろうか。武士だろうか。幼い子どもをこれほどまでの拷問にかけるとは」

 そこで彼は少年を解放し、姉マツのもとへ返しました。

  18 祐次郎の死

 姉の腕の中で目覚めた祐次郎は、わびて言いました。 「私は臆病者でした。 泣き声をあげるつもりはなかったのだけれど」 「いいんだよ。とてもつらかったんだね」

 「最初はとてもつらかった。でも、8日目に一心に祈っていると、小さなすずめが屋根の上にいるのが見えました。その小さなすずめも泣いていました。そのとき母鳥がやって来てえさを与えました。それを見て思いました。すずめでもわが子の世話をするのであれば、天の父が私の世話をしてくださらないわけがない。マリアさまはきっと私を天国に連れて行ってくださいます。そうとわかってからは、私は泣きませんでした」

 11月26日に祐次郎は亡くなりました。 幼い殉教者でした。

  19 モリちゃん

 子どもたちは外で遊ぶことが許されていました。 ある日のこと、モリちゃんという小さな女の子のお母さんが牢屋の窓からながめていると、体の大きな番人がモリちゃんに近付いて行きました。 番人は手においしそうなお菓子を持っています。

 「こんにちは、名前はなんて言うのかね。年はいくつ」「モリというの。5歳」「お腹がすいているだろう。モリちゃん。おいしいお菓子があるよ。イエス様なんて大嫌いと言えばこれをあげるよ」

 お母さんは、モリちゃんが何と答えるか、はらはらしながら様子をうかがっていました。

 「そんな悪いことは言えないわ。私はイエス様が大好きよ。私は天国へ行きたいの。天国のお菓子はずっとおいしいんだから」 モリちゃんはお菓子の誘惑にまけませんでした。 2,3週間後、飢えのために体が弱って熱を出し、モリちゃんは死んでしまいました。

  20 転んだ人々

 飢えと寒さは次第にキリシタンたちの力を奪っていきました。 まもなく54人が音を上げ、改宗すると申し出ました。 彼らは山から町に降りることを許され、暖かい服と十分な食べ物を与えられました。 しかし、決して心からキリスト教を捨てたわけではありませんでした。 自分の弱さを悔やみ、なんとか償いをしようと思って、たびたび仲間のいるお寺に夜こっそりとご飯を差し入れに行きました。

 迫害が終わるまでに36人が殉教し、54人が少なくとも形の上では教えを捨て、63人が信仰を守り抜きました。

  21 迫害の終わり

 諸外国に日本のキリシタン迫害の様子が広く知られるようになると、外国政府は日本政府に、文明の名において迫害をやめるように圧力をかけました。

 また、日本は鎖国によって250年も欧米に遅れをとっていたので、日本政府は伊藤博文、岩倉具視ら有力政治家をヨーロッパとアメリカに派遣しました。 彼らは行く先々で、キリシタン迫害のゆえに野蛮人とののしられました。 そこで彼らは、「日本の国際的評判は地に落ちています」と書き送り、日本政府に迫害を直ちにやめるように働きかけました。ついに政府は「迫害を中止し、キリシタンを故郷に帰すように」という指令を出しました。

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 東京に戻って、早速、図書館に行って、<日本史小百科「キリシタン」H・チースリク監修、太田淑子編(東京堂出版)>をみつけて読んだ。 浦上のキリシタンについても詳しかった。

2011年8月25日木曜日

カダフィがくれたテレビ


 中東の暴れん坊と呼ばれたリビアの独裁者カダフィの命運も尽きたようだ。 ”アラブの春”の嵐で、堅固と思われていた独裁者たちの政権が、面白いほどあっけなく次々と倒壊している。

 リビアが、まだ国連経済制裁下にあった1990年代前半、カダフィに招待されて30人ほどのエジプト人記者たちとトリポリに行ったことがある(2011年3月6日付け「カダフィは禿げている」参照)。 当時、制裁でリビアは航空機の運行を禁止されていたため、カイロから隣国チュニジアのジェルバ島に飛び、そこから陸路、バスでトリポリに向かった。

 帰路、チュニジアに向かう我々のバスの後ろを大型トラックがずっと追尾していた。 バスの車内では、「あれは一体なんだ」と、記者たちは薄気味悪がった。 トラックはチュニジア国境を越え、空港までついてきた。

 トラックは、我々が乗るチャーター機の横の滑走路に停まり、荷物を降ろし始め、大きなダンボール箱が山積みにされた。 なんと、驚いたことに、これらの荷物は、訪問した記者一人一人へのカダフィからのお土産だという。 そして、その中身に、我々全員があきれてしまった。 メイド・イン・リビアの大型テレビだったのだ(無論、当時のテレビはブラウン管)。

 エジプト人記者の自宅にだって、テレビくらいはある。こんなもの持って帰ったって、どうすりゃいいんだ、と文句を言いたくても、もう遅い。 荷物の機内積み込みは始まっていた。 そもそも、独裁者カダフィに「要らん」と突っ返すなんてことをできたわけもない。

 案の定、カイロ空港の税関では、突然持ち込まれた数十台のテレビでひと悶着になり、通関するのに数時間かかった。

 とはいえ、迷惑ではあったが、この土産には、遠路はるばる来てくれた客への田舎のオジサン風の精一杯の歓待の気持ちを感じた。 独裁者の素朴すぎる側面だ。 西欧的概念である国民国家の最高指導者になっても、それは名目だけで、自分の心意気は伝統的部族社会の長であり、我々にそう振る舞った好意の結果がテレビだったのだと思う。

 語弊を恐れず言えば、「古き良き独裁時代」だった。

 おそらく、これまで君臨してきた中東のたいていの独裁者たちは、自分が悪人などと想像したこともないだろう。 彼らは、慈悲深く国民を庇護する父として、確固たる自信を持って政権を運営し、逆らう人間を躊躇なく殺して秩序を保ってきた。 

 今、中東の民主化運動を支持する姿勢をとっている米国も西欧諸国も、つい最近、「アラブの春」が始まる前までは、こういった訳のわからない独裁者たちの形成する中東秩序を肯定していた。 そこから恩恵を受けていたからだ。

 恩恵の内容は、石油を筆頭とする経済的権益とともに、政治戦略的には、米欧が支えるイスラエルの存在を維持することだ。 中東の独裁者たちは、アラブの土地を略奪して作られたイスラエルという国家を敵とみなしながら、米国に宥めたり脅されたりされているうちに、手も足も出なくなっていた。 だから、秩序が維持されるかぎりは、西欧型民主主義のなんたるかを理解できない独裁者のおつむの中がどうなっていようと、どうでもよかった。

 それでは、民主化運動で独裁政権が倒されると、これまでの中東秩序はどうなるのか。 多分、ほっとけば無秩序になる。

 中東イスラム世界の民衆は、根深い反イスラエル感情を持っている。 そのイスラエルに何も出来ない、あるいは何もしようとしない独裁者への不信感が、民主化運動のひとつのエネルギー源にもなっている。 イラクのかつての独裁者サダム・フセインがアラブ民衆から一定の支持を受けたのは、イスラエルとイスラエルを支える米国と真っ向からぶつかったからだ。

 独裁の重しを取り除けば、剥き出しの反イスラエル感情が噴き出す恐れが現実のものになる。民主化で続々と誕生する新政権が反イスラエル姿勢を強めるのは当然のことだ。 そうなれば、イスラエルの生存そのものが危険に晒されるかもしれない。 

 民主化を支援する米国と西欧諸国が決して見たくない「民主化の悪夢」だ。
 それを目の当たりにすれば、米国も英国もフランスも、そしてムバラクもカダフィも、みんな揃って「古き良き独裁時代」を懐かしむだろう。

2011年7月29日金曜日

美しすぎるパキスタン外相



 今月、パキスタン初の女性外相が誕生した。 その外相が7月27日、関係がぎくしゃくしている隣国インドを訪問し、インド外相S.M.クリシュナと会談した(画像)。 1年ぶりの両国外相会談だけに関係改善のきっかけになるのではないかと注目されたが、もっと注目されたのは、パキスタン女性外相ヒナ・ラッバーニ・カルの存在そのものだった。

 とにかく、若くて人目を引く美人だったのだ。 かつて、スリムなジーンズをはいた姿が新聞に掲載されたときは、伝統的イスラム社会のパキスタンで物議をかもしだしたそうだ。 インドの新聞は大はしゃぎで報じた。

 「モデル並みの大臣」

 「デリーの空もうっとり」

 「パキスタンの爆弾がインドに落ちた!」

 身につけたファッションのブランド、価格まで事細かく伝えた。 腕に下げている大きめのバッグは、エルメスのBirkin bag だそうだ。

 確かに、インド人ならずともビックリする美女である。 ということは、女に弱くて、国際問題にも弱い一部の日本の友人のために、多少の冷静な解説をしておく必要があるということだ。

 ヒナは、1977年1月19日生まれの34歳。 ビジネスマンの夫との間に2人の娘がいる。 父親はパンジャブ州のベテラン政治家グラム・ラッバーニ・カル。 1999年ラホール経営学大学で経済学の学位を取ったあと米国に渡り、2001年マサチューセッツ大学でホテル経営学のMBAを取得した。

 2003年父親の勧めで総選挙にパキスタン・ムスリム連盟カーイデアザム派から立候補し、国会議員に初当選。 2008年の選挙ではパキスタン人民党に鞍替えして当選。これまで経済関係担当の国務相などを歴任してきた。

 ラホールのポロ競技場では、上流階級向けの高級レストランPolo Loungeを経営している。 トレッキングが好きで、実際に登ったとは思えないが、カラコルム山脈の8000m級高峰K2、ナンガパルバットに行ったことがあるという。

 外相には、今月19日に就任したばかり。 この人事について、大統領アシフ・アリ・ザルダリは「国家運営の中心に女性を参画させようとする政府の姿勢を示すものだ」と語った。

 パキスタンといえば、国際的テロ組織アル・カーイダのメンバーを匿っていると疑われ、隣りのアフガニスタンの政治不安を引き起こしているタリバンとの関係も指摘され、国際的イメージは危険で怪しげな国家になっている。 そこに出現した若くて美しい外相は、パキスタンのイメージ改善に大いに貢献するかもしれない。 実際、長年の仇敵インドの報道ぶりがそれを示した。

 だが、美人外相の誕生は、決してきれい事ではない。 あくまでも魑魅魍魎のパキスタン政治のメカニズムが働いた結果であるはずだ。

 パキスタンの真の最高権力者として政治を動かしているのは軍だ。 軍の意向に逆らったり、波風を立てるような人物は政府から排除されなければならない。 ヒナの前任シャー・メフムード・クレシは野心家で、それゆえに交代させられたとされる。

 パキスタンの政治問題専門家ハサン・アスカリは言う。

 「軍に代表される権力者たちは、彼らの言うことをなんでも受け入れるヒナに満足している。 彼女なら問題を起こさない」

 つまり、真の権力者たちは手ごろな飾り物としてヒナを選んだのだ。

 また、大統領ザルダリが言うような「女性の参画」が現状のパキスタンで進むとも思えない。

 パキスタン社会には、封建制と呼べるような古い伝統がしっかりと維持されている。 大土地所有者の農園で、農民たちは農奴同然の身分に置かれている。 パキスタン国会とは大土地所有者たちの利害調整の場でしかない。

 ヒナの家も典型的な地主で、広大なサトウキビ・プランテーションやマンゴー農園を持っている。 彼女が米国でMBAを取得しようが、政治的立場は現在の社会構造を維持しようとする保守派である。 ヒナの外相就任と女性の本格的な社会進出には、なんの関連性もないのだ。

 一見、パキスタンの変化を示すような美人外相の誕生だが、実際のところ、権力者たちが現状維持を固めるために権謀術数をめぐらせた結果としか言いようがない。

 そう思って、ヒナの写真をあらためて見ると、客に媚びる水商売の女のようでもある、と言っては言い過ぎか。 そりゃ、いくらなんでも言い過ぎだ。

2011年7月12日火曜日

パラオで歩く

 東京の街、信号のない横断歩道で、歩行者のために停止しようとするクルマはほとんどない。 渡りかけた人がいてもブレーキをかけずにハンドルを切って避けるだけという人殺し予備軍の運転者だって珍しくない。

 電車の中で、老人や身体障害者を無視して座席に座り続ける他者への無関心さ、非社会性と同根の、優しさが欠落した人間たちの姿だ。 こんな冷淡な人間たちの棲むところを文明社会とは呼びたくない。

 東京から南へ3000km。 太平洋のミクロネシアと呼ばれる一帯に浮かぶ小さな島国パラオ。 1年ぶりに、そこに住む知人と酒をくみかわしに行ってきた。

 パラオは、19世紀以来、スペイン、ドイツ、日本の植民地となり、太平洋戦争のあとは米国の信託統治領となった。 独立したのは1994年。 本当に小さな国だ。 現在の人口21,000人は世界232か国中219番目。

 植民者たちはパラオ人を原住民とか土人と呼び、まともな文明人として扱ったことはなかった。 民主主義の米国にしても信託統治時代は、zoo theoryと揶揄された政策 、つまり、住民を動物園の動物たちのように飼い殺しにする政策を取った。 冷戦期、太平洋の軍事戦略上、重要な地理的位置にあったパラオを軍事拠点として確保するため、米国は莫大な経済、財政支援で政治的、経済的安定を維持した。 独立後も経済的自立は難しく、米国からの援助は続いている。

 今、パラオは世界的なダイビング・スポットとして注目を浴び、美しい珊瑚の海を目指して、多くの日本人が訪れている。 だが、彼らにしても、海中に舞う小魚に対する以上の関心をパラオの人間たちに示しているとは思えない。

 ウェブでも本でも、パラオの観光ガイドを見れば歴然としている。 ”美しい珊瑚礁”や”巨大なジンベイザメとの遭遇”はあっても、人に関する情報は無に等しい。 あったとしても、日本統治時代にパラオ語になった日本語の紹介、例えば、ブラジャーがチチバンド、といった程度でしかない。

 つまり、パラオ人は、日本人から今でも南洋の土人扱いされているのだ。

 だが、社会的弱者を無視し、歩行者をひき殺しかねない運転をする日本人がパラオ人を見下すのは、天地がさかさまの論理だ。

 パラオの最大都市コロール、と言っても日本の村程度の規模だが、街の中央を通る道路はクルマが多い。 この国に交通信号はひとつもないが、横断歩道はいくつもある。

 東京と逆なのは、人が横断歩道の手前に立つだけでクルマが止まってくれることだ。 横断歩道のないところを渡っても、クルマは徐行してくれる。 クルマが人に、とても優しいのだ。 道路を歩いて渡るのが、とても気持ちいい。

 パラオの社会には、人間関係のハーモニーがあるのだ。 これこそが文明であって、他者を無視する世界を支配するのはジャングルの掟であって、文明社会ではない。

 パラオ人は怠け者で働かないと、外国人は卑下する。 だが、これも当たらない。 彼らは働く必要がないから働かない。 米国の莫大なzoo theory 援助のおかげで、彼らは働かなくても十分生活が成り立つのだ。 日本からの援助もばかにならない額になっている。

 冷戦は終わったが、中国が太平洋へ軍事的に進出する動きをみせている。 米国は中国を牽制するために、パラオの戦略的重要性に再び目を向けているはずだ。 つまり、これからも米国のパラオ経済支援が続くということだ。 だから、パラオ人はまだまだずっと働かないで生きていけるだろう。

 だが、彼らは根っからの怠け者ではない。 パラオ人は米国市民権を持っており、米国本土へビザなしで行くことができる。 多くの若者たちは米国の大学に入り、卒業後も本土に留まる。

 米国では働かなければ生きていけない。 パラオでは働かないパラオ人も、米国では働くのだ。 パラオ人を怠け者と見くびってはいけない。

 われわれ日本人も、パラオ人からクルマの運転を習って、文明人に少しでも近付こうではないか。   

2011年7月7日木曜日

ありがとう、キム・ヨナ!!

 キム・ヨナ、氷上で美しすぎる君は、国際オリンピック委員会総会という外交の場でも、十分魅力的だった。 南アフリカのダーバンで開かれた総会で、2018年冬季オリンピックを韓国の平昌に招致しようと、広報大使として訴える君の誠実な姿は、一アスリートを超え、人間としての大きさをもみせてくれた。

 そして、7月6日。 「2018年は平昌に決定」の朗報が飛び込んできた。

 キム・ヨナ、ありがとう。 おかげで、2020年夏季オリンピック招致に偏執狂的にこだわる東京都知事・石原慎太郎の野望に対し、かなりの打撃を加えることができた。

 冬季と夏季は異なるオリンピックだが、それでも国際オリンピック委員会の多くの委員の心情は、平昌→東京と2回連続のアジア開催に強い反発があるとみられている。 2018年平昌招致が決まれば2020年東京招致が遠のくのは間違いない。

 キム・ヨナよ、非力な東京住民は石原の野望打破のための武器をまだ蓄えていない。 この現状では、君の魅力で2018年冬季を平昌に引き寄せるのを静かに応援するという他人頼みの消極的、心情的手段しか持ち合わせていなかった。

 キム・ヨナに続いて、われわれ東京住民も、東京招致の野望にとどめを刺すために動きださねばならない。

 われわれにオリンピックなんか必要ない。 東日本大震災復興のシンボルなんかいらない。 カネがあるなら、せいぜい東京―青森間の自転車道路でも建設しようではないか。 シンボルだったら、それで十分すぎる。

 さあ、立ち上がろう!! キム・ヨナに恩返しをしようではないか。

2011年6月21日火曜日

被災者を食いものにする東京五輪



 東京で最後に蛍を見たのは、いつだったろうか? 天の川は? 国道246号をクルマの合い間を縫って歩いて渡ったのは? 小川でメダカやヤゴを取ったのは? 畑からトマトやキュウリをかっぱらったのは? 大都会に残っていた長閑な余裕空間が消え始めたのは、1964年開催の東京オリンピックの準備が始まったころだった。

 今でこそ、あの祭典は、戦後日本の復興を象徴する歴史的イベントなどと後知恵の評価がなされているが、当時、東京の街はどこも工事だらけで埃っぽく、騒々しく、多くの人々が”国家事業”に辟易としていた。

 無論、世界最高峰のアスリートたちの肉体的美しさを目の前で見る体験は素晴らしかった。 だが、この時代は、東京が醜悪さを加速度的に深めていくのと同時進行だった。

 あの東京オリンピックがなかったら、今の日本は違う姿になっていただろうか。 おそらく、さして異ならない。 やはり、蛍も天の川も見えない東京になっていた。 それが「戦後復興」「経済発展」だった。

 なぜ、1964年東京オリンピックは開かれたのだろうか。 その開催を最も欲していたのは、太平洋戦争の惨憺たる結末で国家というものから離反していった日本人を、もう一度呼び戻し、国家の求心力を強めようと画策していた国家主義者たちだ。

 東京都知事・石原慎太郎が2016年のオリンピック招致失敗に懲りず、6月17日、その次の2020年招致に乗り出す意向を表明した。 報道によれば、石原は「大震災から立ち直り、9年後の姿を披瀝するならば、世界中から寄せられた友情や励ましへの返礼になる」と語って、「復興五輪」の理念を掲げることを示した。

 石原の表明に追随して、19日には、読売新聞と産経新聞が東京五輪開催を支持する社説を掲載した。 「復興の証しに聖火を灯したい」(読売)、「今度こそ国一丸で実現を」(産経)。 石原のこれまでの主張に近い国家主義的色彩の論調を掲げてきた、この二つの新聞が支持表明をしたことは当然であろう。

 東京は、2016年の選考では「南米初」をアピールしたリオデジャネイロに惨敗した。 そして、読売の社説は、 「東京は、なぜ五輪を開くのか、という明確なメッセージを欠いていたことが、前回の招致失敗の教訓といえよう。 ……大震災からの復興の証しとしての五輪を、という今回の主張は、各国の共感を得られるのではないだろうか」と、やや自信なさげに書いている。

 それはそうだろう。 こんな書き方では、初めに五輪ありきで、「復興の証しとしての五輪」は招致実現のための口実にすぎないことが見えすいている。 ウソをつくのが下手くそなナイーブすぎる論説委員が書いたのだろう。

 石原の招致表明にしてもそうだ。 2016年招致のとき、声を大にして主張した「地球環境の大切さを訴える五輪」には一言も触れなかった。 地球環境では十分アピールしないから、今度は「大震災からの復興」というわけだ。 「地球環境」はもうどうでもいいのだろう。

 恐ろしいことだ。 2020年の選考で東京が落選すると、東日本大震災の被害者たちも、地球環境と同様、使い捨てされるかもしれないのだ。

2011年6月17日金曜日

ドイツのもやし




 ドイツで、強い毒性を持つ腸管出血性大腸菌(EHEC)に汚染された食べ物で多くの死者が出たというニュースが伝えられた。 しばらくして、その食べ物とは「もやし」と特定されたと日本のメディアは報じた。

 「もやし」と聞いて意外と思った日本人は多いだろう。 「ソーセージとジャガイモしか食わないドイツ人」というイメージが一般的だろうし、そう言ってドイツ人をからかっても、真っ向から否定するドイツ人は少ないからだ。

 ドイツ人がもやしを食べるとすると、一体どうやって食べるのだろうか。 素朴な疑問ではないか。 取材の甘い日本のメディアは教えてくれない。

 で、東京に住むドイツ人の女友達にきいてみた。 だが、あまり要領を得ない。 ドイツ人はもともと食べないが、最近の中国料理ブームで食べるようになったのではないか、と推測するが、中国料理なら、もやしに熱を通して調理するだろう。 今問題になっているもやしは、生で食べた人が犠牲になっている。 もやしを生で食べるのはアジアでも、あまり一般的ではなく、ベトナム料理の生春巻きやフォー(うどん)など限られている。 味覚音痴のドイツ人なら生で食べかねない、などとは言わない。

 結局、東京のドイツ大使館に電話できいて、疑問は解けた。

 彼らが食べているのは、もやしであって、もやしではなかった。 アルファルファなどのスプラウト類、もやしと同じ豆の新芽だが、かいわれ大根みたいに細くて歯ごたえは、日本人の食べるもやしより、はるかに柔らかい。 サラダ用スプラウト Salatsprossen だったのだ。 これなら日本のスーパーにも売っているし、日本人もサラダで食べる。

 英語だったらsprout、和訳すれば「もやし」だが、「スプラウト」と「もやし」は似て非なるものだ。

 だが、その危険性となると、「もやし」も「スプラウト」もへったくれもなく同じらしい。

 昨年(2010年)8月、イングランドとスコットランドで生もやしとの関連が疑われるサルモネラ感染症が多数発生し、英国食品基準庁(FSA)は9月に、もやしの「調理法に関する助言」を公表した。

 ①完全な加熱調理。大きなもやしを炒め物に加えるときは数分間煮立てる②生もやしは徹底的にすすぐ③茶色に変色、あるいは異臭を発するものは食べない④使用期限を厳守⑤冷蔵庫に保管etc

 Wikipedia日本語版の「もやし」の項目にも、「豆もやしは大腸菌をはじめとする細菌が増殖しやすい食品であり、消費者が購入する時点で平均して1g当たり100万~1000万の細菌があるといわれている。そのほとんどは人間に害のない細菌だが、食中毒菌についても増殖しやすい食品であるといえる」と記されている。

 米国では、スーパーに売られているスプラウトの袋に「生で食べないように」と米国食品医療局(FDA)の忠告が書かれている(冒頭の画像)。

 それでは、日本ではどうなのか。

 近所のスーパーに行って袋を詳細に見てみると、確かに、裏に小さく、誰も気付かないように記してあった。 「必ず熱を通してからお召し上がりください」と。 いかにも、姑息な日本的手口。 東電と同じで不都合なことは目立たないようにさせる。

 1袋38円、罪のなさそうな真っ白いもやしが実は、とんでもない危険性を秘めていたのだ。

 つまり、ドイツで起きた大腸菌騒ぎが日本でも起こりうるということだ。 これまで日本で、もやしの安全性などが注目されたことがあったのだろうか。 ユッケ同様、信じて食べると殺されるかもしれない。

 もやしを沸騰した湯に軽く通すだけで、胡麻油と塩を振りかける。 しゃきっとした歯ざわりが大好きだ。 ビールにも、ワインにも、日本酒にも、焼酎にも合う 得意のアペタイザーだが、とりあえずメニューから外すことにしよう。    

2011年6月12日日曜日

ガセネタ???



 新聞記者の友人が飲みながら面白い話をした。 ネタ元の警察官が、コンビニ弁当を毎日、1か月間食べれば死んでも遺体が腐らないと言ったというのだ。 多量に使われている食品添加物・保存料のせいだという。

 仕事柄、日常的に様々な死体を目にしている警察官の言うこととなると信じてもいいかという気になったが、ためしにインターネットで「食品添加物、遺体」と検索してみた。

 すると、驚いたことに似たような話が次々と出てきた。

 「コンビニでアルバイトをしていた大学生が自宅アパートで死んでいるのがみつかった。 検視の結果、死因は心臓発作で死後3か月以上経っていた。 だが、遺体の腐敗はほとんど進んでいなかった。 彼は売れ残りのコンビニ弁当を毎日食べていたことがわかった」

 「現代人の遺体は腐りにくくなっていて、近年、葬儀で使用するドライアイスの量が少なくなっている」

 「2004年12月のスマトラ沖地震で津波に襲われたタイ・プーケット島では多くの日本人観光客も犠牲になったが、タイ人の遺体は腐るのに、日本人は腐らなかった」

 「米国で土葬された遺体は通常3か月で白骨化する。 だが、最近は2割が半年、1年、ときには2年経っても原形をとどめている」

 近年大量に使用される保存料が人間の体内に蓄積され、死んでも腐敗しない体質になってしまった、過去の共産主義国家指導者たちのように、われわれの遺体もガラスケースに入れて陳列できるというわけだ。

 保存料に代表される食品添加物というと、普通は、生きている人間の健康への悪影響が問題にされる。 だが、腐敗しない体になるなら、それ自体、悪いことではないのではないか。 夏場の葬式だって、慌てることはなくなる。 警察の遺体検視も、やりやすくなるだろう。

 だが、保存料の大量摂取で腐らない体になるなんていうのは、まあ十中八九、近ごろ流行りの”都市伝説”というやつだろう。

 代表的保存料のソルビン酸は、体内で代謝され二酸化炭素と水に分解されるそうだ。 つまり、保存料は体内に留まらない。 だいたい、古代エジプト人がえらい手間をかけて作ったミイラが、コンビニ弁当を食わせるだけで出来てしまうわけがない。

 ただ、ネットにひとつだけ立証してみる価値がありそうな話があった。 「コンビニ弁当の食材を畑の肥料にしようと肥溜めに入れたが、いつまでたっても原形を保っていた」。 保存料が代謝されるわけではないから本当かもしれない。

 今度、友人の新聞記者に会ったら、東京で肥溜めを探し出して実験してみろと言ってやろう。

 

2011年6月11日土曜日

飛行機事故って




 さる6月4日、北海道の奥尻島で、空港へ着陸しようとした小型旅客機が、地上200mのところで視界不良のため着陸を中止し、再び高度を上げたが、なぜか再び高度が下がり、地上までわずか30mのところで機長があわてて急上昇させ、滑走路への激突を回避したという。 乗客乗員13人の生死は紙一重の差だった。

 日本の新聞は、このトラブルを社会面で大きなスペースを使って伝えていた。 だが、おそらく、世界では、この程度のトラブルは毎日のように起こっているに違いない。 犠牲者が出ないから報道されていないだけだ。

 1981年のことだったと思う。 パプアニューギニアの首都ポートモレスビーから中央高地のマウントハーゲンへ20人乗り程度の小さなプロペラ機で向かった。 マウントハーゲンの飛行場は山に囲まれ、掘っ立て小屋程度のターミナルがある側を除く三方は谷底で、着陸のときは乗客もかなり緊張する。 われわれの飛行機は次第に高度を下げ、車輪が滑走路に触れたが、再び急上昇した。 そのまま着陸すれば谷底に転落することは乗客にもわかった。

 パイロットの2度目の試みで、やっと着陸し、われわれは命を拾った。 数人の外国人乗客はほっとしてターミナルに向かったが、地元の乗客たちは、もしかしたら、こんなことに慣れていたからかもしれない。 数人がかりでパイロットを操縦席から引きずりおろし、腹の虫がおさまるまで頭を小突いていた。 死んだら恨みを晴らせないのだから、このくらいやってもいいんだと、そのとき思った。

 飛行機事故の発生率は地上の交通事故よりはるかに低いというが、これまでの人生で3人の知り合いを飛行機事故で失った。 この数字は多いのか少ないのか。

 1986年、日本の外交官Oはインドネシア・スマトラ島メダンの空港を離陸した直後に落雷で墜落したインドネシア航空機に乗っていた。 Oは誰もが認めるインドネシア語のスペシャリストで、自身もイスラム教徒だった。

 1988年7月3日、イラン南部バンダルアッバスを離陸しアラブ首長国連邦(UAE)のシャルジャに向かったイラン航空機が、ペルシャ湾を航行していた米海軍ミサイル巡洋艦ヴィンセントのミサイル誤射で墜落、乗員乗客290人全員が死亡した。 その死亡者名簿の中に、テヘラン駐在のパキスタン大使館武官Mの名前があった。 気のいいMは、禁酒国イランで外国人ジャーナリストたちが密かに開く飲み会に気軽に顔を出し、情勢分析を披露してくれたものだ。

 1994年11月、カイロ駐在の日本のテレビ局特派員Iは、ルワンダ内戦の取材に向かった。 当時のルワンダはフツ族とツチ族の衝突で総人口730万のうち80万以上が虐殺され、世界が注目していた。 Iは、いったんケニアの首都ナイロビに飛び、そこでセスナ機をチャーターしてルワンダへ向かおうとした。 だが、離陸まもなくセスナ機は高圧線にひっかかって墜落した。 Iは狙ったトクダネは絶対ものにしてやるという事件記者根性の持ち主だった。

 1988年8月17日には、知り合いではないが、記者会見で何度か顔を合わせていたパキスタン大統領ジア・ウル・ハクが、乗っていた軍用機の墜落で死んだ。 敵が多かったハクだけに、当時、暗殺説が根強く流れたものだ。

 これから死ぬまで飛行機に何回乗るのだろうか。 計算上、乗れば乗るほど、事故に遭遇する確率は高くなっていく。 自分だけは事故に遭わないという確固たる自信はいったい、どこから来るのだろうか。

2011年5月21日土曜日

ジャンクフード




 インドネシアの村では、ニワトリが飛ぶ。 2,3mの高さの木の枝へ軽々と舞い上がる。 日本で見慣れたニワトリより小柄で痩せている。 市場に行くと、生きたまま売られている。 ブロイラーと比べれば、限りなく野生に近いトリと言えるかもしれない。

 これがインドネシア伝統のフライドチキン、「アヤムゴレン」になる。 数種類のスパイスで下味を作って揚げたアヤムゴレンは引き締まった肉と深い味わいの逸品だ。

 1983年、首都ジャカルタ中心部メンテン地区の繁華街アグス・サリム通りに、ケンタッキー・フライドチキンの店KFCがインドネシアで初めてオープンした。 典型的ジャンクフードのぶよぶよしたブロイラーのフライを、アヤムゴレンに親しんでいたインドネシア人が受け入れるとは思えなかった。 ところが、かなりの人気になってしまったのだ。

 当時のインドネシアは現在につながる経済発展は動き出しておらず、貧富の差は絶望的な大きさで、ケンタッキーといえども庶民には高嶺の花だった。 結局、あの人気は、チキンよりも、金持ちたちが目新しい”アメリカ文化”を味わうために群がったことで成立したのだと思う。

 そして、経済発展で庶民にも”文化”を味わう余裕が生まれ、今では、ぶよぶよチキンの店が地方都市にまで進出している。 アヤムゴレンという素晴らしい伝統料理がありながら、なぜ醜悪なケンタッキーが好まれるのか。 この背景には、Americanization という名のglobalization という我々が考えなければいけない問題が潜んでいるのかもしれない。

 これは日本でも同じことだ。 実は、きのう、ケンタッキーは昔より美味くなったと誰かに言われ、10数年ぶりにケンタッキーの店に行って、クリスピー、つまりカラッと揚がってパリパリという触れ込みのフライドチキンを注文して食べた。 だが、相変わらず、クリスピーとは言えず、しかも、見事にジャンクフードであり続けていた。 トイレに行って吐きたくなった。

 自作の和風唐揚げの方がはるかに美味い。 鶏肉を酒、醤油、にんにく、胡椒に漬け、片栗粉をまぶして揚げる。 味がしみ込み、パリンパリンのクリスピーが出来上がる。

 昼時のケンタッキーの店は、若者のグループや家族連れで賑わっていた。 だが、よく見れば、誰も美味そうに食べている顔ではなかった。 とりあえず安い食い物で腹をふくらませているという無表情さだ。

 貧しいからケンタッキーに行くのか、ケンタッキーに行くから心が貧しくなるのか。 あのまがい物のハンバーガー、マクドナルドと同様、食べると気持ちが萎えるKFCには、もう2度と行くまい。  

2011年5月17日火曜日

原発・ユッケ・バンジージャンプ




 昔から度胸試しの儀式だったとされるバンジージャンプを、商業娯楽スポーツとして確立したのはニュージーランド人だ。 彼らに言わせると、バンジージャンプは世界で一番安全なスポーツだそうだ。 死亡率だか事故発生率で計算するとそうなるという。 ちなみに世界一危険なスポーツはスノーボードになるそうだ。

 身がすくむような高所から飛び降りることが安全だと主張するには、からだに結ばれたゴムのコードが絶対に外れない、絶対にちぎれない、伸びすぎたり長すぎたりして地上に脳天を激突させることは絶対にない、等々の信頼できる根拠が前提になろう。

 しかし、どんなに度胸があっても、今の日本人がバンジージャンプに挑戦することはない。 どんなにもっともらしい安全保証でも信じない方が身のためだという猜疑心を持つ必要性を学んだからだ。

 安全神話が捏造されていたことが判明した原子力発電、そして殺人ユッケの発覚。 これで十分だ。

 日本人も、個人が自分の頭で考え判断して生きていくことを学ぶ機会を得た。

 新幹線が暴走することはないのか?

 魚の刺身を食って死ぬことはないのか?

 タワーマンションがぱたりと倒れることはないのか?

 レインボ-ブリッジがクルマの重みで崩壊することはないのか?

 富士山大噴火はまだか?

 自衛隊はクーデターを起こさないのか?

 北朝鮮の日本への核ミサイル攻撃はないのか?

 大彗星の地球衝突は?

 宇宙人の襲来は?

 とりあえず、自分の配偶者や恋人を信頼している根拠を(もし信頼しているなら)冷静に吟味するのは、猜疑心を研ぎ澄ませる手ごろな訓練になるだろう。

 それにしても、原発よりバンジージャンプの方が安全だと思う。

2011年5月3日火曜日

ビンラーディンの死




 白土三平の壮大な歴史劇画「忍者武芸帖 影丸伝」は、戦国時代を舞台に、忍者・影丸が農民一揆を指導し、支配層へ苛烈な戦いを挑む物語だ。 影丸は殺されても殺されても生き返る不死身の存在である。 この不思議な現象によって白土が描くのは、同じ社会的矛盾が続くかぎり、それを是正しようとする民衆の行動は必然であり、とどまることがないという史観だ。

 オサマ・ビンラーディンがついに、米国のパキスタンでの軍事作戦によって殺害された。

 ビンラーディンがイスラム大衆の全面的支持を受けたことはない。 だが、彼の無差別殺人をも厭わない狂気は別にして、中東イスラム世界の人々は反米意識を共通して分かち合っている。 そこに、ごく少数の若者がテロという極端な行動に走る土壌がある。

 民衆との接点がないビンラーディンは影丸ではない。 だが、ビンラーディンが死んでも、米国が世界、とくに中東地域の秩序作りを主導するかぎり、彼の思想に共鳴しテロリスト願望を抱く若者たちは、影丸のごとく決して消え去ることなく再生産されていくであろう。

 いちどきに3000人を殺した9・11テロを遂行したビンラーディンの死は、歴史的出来事として米国民を歓喜させた。 だが、テロは決してなくならない。 人間が生きているかぎり癌の発病を根絶できないように、価値の多様性に鈍感な世界覇者・米国の存在そのものが、テロを生んでいる。   

2011年5月1日日曜日

Canonは大砲じゃない





日本を代表するカメラメーカーCanonの社名は、1935年、世界で通用するブランド名として採用された。 キリスト教の「聖典」「規範」を意味し、精密工業にふさわしいというのが理由とされる。


 英語で1字違いのスペルcannon(画像下)は、発音は同じだが、意味がまったく異なる。 戦場で昔から使われてきた代表的な大砲のことだ。


 近ごろ、野生動物の撮影のためと称して、兵士のように迷彩服で身を固め、長大な望遠レンズを担いでいるマニアックな人々を見ると、Canonは、社名をCannonに変更してもいいのではないかと思ってしまう。 なぜなら、あの望遠レンズは、命を脅かす武器にもなるからだ。 


 川崎市・平間のベテラン写真家K氏が語るカメラ・フリークたちの生態はおぞましい限りだ。


 この冬、東京・大田区の多摩川河川敷にトラフズク(画像上)が棲みつき、カメラを担いだ人間たちが群がった。 彼らは、夜行性のトラフズクが樹上で休んでいる昼間、情容赦なく望遠レンズ=大砲の集中砲火を浴びせた。 K氏によると、動物へのいたわりの気持ちがかけらもない連中の存在は、今に始まったことではない。


 約10年前までは、多摩川の川崎側でトラフズクを見ることができたという。 当時も、その存在が知れ渡り、カメラ人間たちが群がった。 昼間は眼を閉じて休んでいるトラフズクを長い棒でつついて起こして、眼を開けた写真を撮ろうとするヤツまでいたと、K氏は憤慨する。


 このころは、コミミズク (画像中)も多摩川に棲んでいた。 コミミズクは昼間も行動するので様々な絵柄の写真を撮れる。 狙い目は、河川敷に巣食う野ネズミを急襲する瞬間だ。 だが、水辺ぎりぎりまでゴルフ場の芝が敷き詰められた河川敷の餌場は限られている。 ところが、狼藉者たちは、ずかずかと餌場に入り、ネズミの巣穴の上に立ってカメラを構える。 これではコミミズクがネズミを捉えることはできない。


 K氏は「鳥の気持ちを少しは考えろ」とたしなめた。 すると、その相手は「オレは鳥じゃないからわからん」とうそぶいた。 それでもK氏は、群がる無法者たちに丁寧に説明して、餌場の外で撮影するというルールだけは守るようにさせた。
 それからしばらくして、その餌場は多摩川の大水で冠水した。 以来、川崎側ではトラフズクもコミミズクもみかけなくなったという。


 ちょうど、聳え立つCanon本社を眺めることができるあたりの出来事だ。 Canonが武器商人でないなら、カメラを野生動物迫害の兵器にさせない努力をすることが企業責任というものだろう。




2011年4月16日土曜日

渋谷―3・11から1か月、最初の週末





 2011年4月16日、土曜日、午後6時。 東京・渋谷に歴史的悲劇の臭いはなかった。

 そう、若者たちは盛り場でのわずかな消費の積み重ねで、日本経済復興に貢献していた。

 すばらしい無意識の貢献の姿ではないか。


 <Canon PowerShot G12 / 魚眼風モード>

2011年4月14日木曜日

白き1票で政治を変えよう


 オリンピックの東京招致なんか絶対に反対だったし、そもそも、あの傲慢な態度で人を見下す都知事の石原慎太郎には生理的不快感を覚えていた。 だから4月10日の都知事選挙では投票によって、自らの意見を表明すべきだったかもしれない。 が、花見酒を飲んでいるうちに選挙のことなど忘れてしまった。

 友人の写真家Tは違っていた。 政治への不信感を表明するために投票に行ったのだ。

 上のイラストは投票所での投票のやり方をサルにもわかるように説明したものだ。 ①受付で自宅に郵送されてきた投票所入場整理券を渡す②選挙人名簿で本人確認をする③投票用紙をもらう④投票記載台で用紙に自分の支持する候補者名を記入する⑤投票箱に用紙を入れる。

 Tは自分の政治不信を、④を省き、③から⑤へ、つまり投票用紙を受け取ると投票箱へ直接向かい、白紙のまま投函するという行動で表明した。

 イラストに描かれている投票立会人・投票管理者の目に、Tの行動はかなり突飛に写ったようだ。 彼らの一人は思わずTに声をかけた。

 「あっ、お客さん」

 後日話をきいて「お客さん」には笑わせられた。 有権者を「お客さん」と呼ぶ神経は訳がわからないが、かと言って、どう呼べばいいんだろう。 ヒマなときに選管に電話してきいてみよう。

 選挙では石原が当選してしまった。 だが、「勝った」というのはウソだ。

 石原は立候補者の中では最高の2,615,120票を得票し、日本の新聞は得票率43.4%で圧倒的強さを発揮したと報じたが、この得票率の数字は明らかな間違いだ。

 43.4%というのは、投票者数6,072、604に占める割合で、東京の全有権者数10,505,848の中では24.9%でしかない。 これが石原の本当の得票率なのだ。 

 この選挙の投票率は57.8%。 したがって棄権した有権者は42.2%、4,433,244票。 石原の獲得数を断然引き離し凌駕している。 

 真の勝者は<白票>なのだ。

 Tのように積極的に白票を投じるために投票所に行った有権者の数はわからない。 ちなみに、都知事選立候補者11人の全得票数は6,025,339で、投票者数より47,265少ない。 おそらく、ほとんどは書き間違えや判読不能の無効票であろう。 Tの貴重な反骨の1票も、残念ながら、その中に紛れ込んでしまった。

 そう思うと、うんざりする。 いいかげんに、偽善と欺瞞の選挙制度は変えようではないか。 白票に代表される積極的棄権がカウントされる制度を作り上げれば、政治不信を政治家に明確に突きつけることができる。 そうなれば、多くの有権者がわくわくして白票を投じ、投票率が大幅に上がるにちがいない。

2011年4月7日木曜日

就職先は東京電力


 彼らは、上級生や卒業生、監督に対し、常に礼儀正しい。 喉が張り裂けんばかりの大声で挨拶する。 自分たちの使う練習グラウンドに対しても、まるで、そこに神が宿るかのように礼をする。

 この高校野球少年たちに叩き込まれた礼儀作法は、彼らがやがて卒業し、おとなになってからも保ち続けられるかもしれない。

 ただし、それは、”内向き組織”の礼儀だ。

 少年たちは、野球部と野球部関係者以外の人間には、ほとんど関心がない。 だから、礼儀正しいにもかかわらず、彼らは、公共の遊歩道上で、散歩やサイクリングをする人、ジョガーたちの邪魔になっても気にせず、平然と下着姿になって着替えをする。

 彼らにとっての礼儀とは、野球部という、おそらく、かなり歪な小宇宙の中で生きるための術なのだろう。 これは、いわば処世術ではないか。

 そう、企業の社会的責任の意識が希薄なくせに、社内政治には血道を上げるような会社に就職し、会社と上司への忠誠心が絶対とされるようなとき、その処世術は役に立つ。

 とりあえず、君たちに推薦できる就職先は、東京電力だ。

2011年4月1日金曜日

災害ボランティア・優先席無視・買いだめ



 大災害に遭った人たちに何かをしてあげたい。 今、多くの日本人が慈愛の心を持ち、募金箱にお金を投じ、さらには、より積極的にボランティア活動をしようと現地へ向かっている。 

 その一方で、東京の電車の中では、3・11以前と同じように、サラリーマンやOLや学生、普通のオジサン、オバサンたちが、社会的弱者を無視して優先席を占拠している。

 これが、同じ国で同時進行している光景なのだ。

 スーパーでは、自分だけは美味いものを食い続けよう、快適な生活を楽しもうという買いだめの群れの襲撃が続いている。

 人間の美しさと醜さ。 美しいだけが人間ではないことを知る貴重な日々を、われわれは今生きているらしい。

2011年3月27日日曜日

自国民大虐殺の国シリア



 1982年2月3日午前2時、シリアの首都ダマスカス北方約200km、古い歴史のある美しい都市ハマの中心へ向け、シリア軍部隊が夜陰に乗じ、密かに潜入しつつあった。 ハフェズ・アサドのバース党政権に敵対するイスラム原理主義組織・ムスリム同砲団の武装ゲリラ指揮官アブ・バクルの根城を急襲しようとする作戦だった。

 だが、この作戦は待ち構えていたゲリラ側の攻撃で完全な失敗に終わった。 そして、それがすべての始まりとなった。

 兵力12,000のシリア軍が戦車とともにハマを包囲し、戦車の攻撃ルートを作るための空爆には戦闘機が動員された。 政権に歯向かう者たちへの情け容赦ない殺戮の開始である。

 ハマの包囲は27日間におよび、由緒ある街並みはずたずたに破壊され、街路には死体が累々と横たわった。

 犠牲者は恐ろしい数にのぼり、数万人とされたが、誰も正確に言うことはできなかった。

 それから20年後、シリア人ジャーナリスト、スビ・ハッディは、死者数を30,000~40,000人、行方不明者数15,000人、100,000人が追放されたと推計した。 中東における最大の自国民殺戮である。 シリアにおける反政府活動は以来、ほとんど根絶やしにされた。

 シリアというのは、恐ろしい国なのだ。

 そのシリアでも、中東で急激に拡大してきた民主化要求の運動が始まった。 チュニジアやエジプトのように、「優しい独裁者」の国ではない。 リビアとも違う。 ハフェズ・アサドを引き継ぎ大統領になった息子バシャール・アサドは、冷酷な父親とは異なる改革主義者ではある。 だが、「ハマ大虐殺」の記憶ゆえに、陰惨な不気味さが漂う。

 今は、リビア、日本に続く不幸な出来事が起きないことを祈るしかない。

 以下、シリア関連ブログ(アサド・ファミリー、シリアの難民、クルド人など)。



2011年3月21日月曜日

日本脱出


 1975年4月29日、南ベトナムの首都サイゴンの占領を開始した北ベトナム軍から逃れるため、残っていたアメリカ人や、一部のベトナム人が、懸命の、そして最後の国外脱出を続けていた。

 米軍の手元にあった使用可能な兵員輸送ヘリコプターのすべてが動員され、人々はサイゴン市内から沖合いに待機する空母へ運ばれた。 北ベトナム軍がせまる中、それは時間との競争であり、出国しようとする全員の輸送が不可能なことは目に見えていた。 当然、多くの人々が取り残された。

 オランダ人フォトジャーナリストHubert Van Es が撮った当時のドラマティックな光景を覚えている人は多いだろう。

 3月11日の巨大地震・津波、その後の余震と原子力発電所の深刻な損傷。 鈍痛のような不安は今も続く。 そして、在住外国人たちは日本脱出を続けている。 

 「(法務省入国管理局によると)地震後は外国人を中心に出国者が増加し、羽田と成田空港からの出国者が地震前の約2倍に達している。 一時帰国に必要な在日外国人の『再入国』の手続き者は通常の約10倍に達している」(3月19日読売新聞夕刊)

 ヨーロッパの新聞のウェブ版には、出発ロビーで「日本の友人を置いて離れるのは心苦しい」と語る談話が載っていた。 そんな心優しい気遣いはあるにしても、外国人の日本脱出は着々と進んでいる。

 われわれは今、日本人として初めて、見捨てられる、去られる寂寥感を味わわされている。

 ベトナム、カンボジア、アフガニスタン、イラン、イラク、イエメン、ボスニア…。 戦争や内戦が激化するたびに、外国人たちは脱出した。 だが、去られる国の人々は、去る外国人を責めることはない。どんな悲惨な状態になっても、そこに生きる宿命を受け入れるしかないからだ。

 だが、去る外国人への複雑な感情は否定できない。 イラン・イラク戦争の末期、イラクはイランへ激しいミサイル空襲を加えた。 このため、当時住んでいたテヘランから隣国トルコへ一時避難したことがある。

 そのときイラン人の友人たちが向けた目は、なんと表現したらいいのか、あらゆる感情をごちゃまぜにした無彩色とでも言おうか。 

 無論、戦争と災害は違う。 だが、あの目を今の日本人も去る外国人に向けているのかもしれない。

2011年3月18日金曜日

巨大地震とともにスキーシーズンも終わった


 地球温暖化が進む中での大雪。 この冬、スキー場ではパウダースノーを思い切り楽しむことができた。 だが、やはり何かが異常だったのだ。 とてつもない巨大な災害が起きた。

 山には、まだたっぷりと雪がある。 気温が低くて、いつもの春と比べ、コンディションも良好だ。 だが、今年のスノースポーツのシーズンは突然終わった。

 スキーバスは運行を停止し、多くのスキー場は実質的にクローズした。 ガソリンも電力も不足ではバスやリフトを動かすことはできない。

 そして、なによりも、東北の人たちが避難所で寒さに震えているときに、寒さを遊びの道具にする気など、とても起きない。

 さらば、スノーフリークたちよ。 雪を無邪気に楽しめるときが早く来ることを祈ろうではないか。

2011年3月16日水曜日

そして多摩川フクロウはいなくなった


 巨大地震・津波が起きる直前の3月11日午前中には、たしか2羽がいたと思う。 だが、2日前には1羽しか見なかった。 そして、きょう3月16日は、朝から1羽も見なかった。

 東京・大田区の多摩川河川敷に昨年12月から棲みついた6羽のフクロウは、たちまち人間たちの好奇の目に晒され、3か月間にわたりカメラという狩猟道具の標的にされ続けた。

 年が明け、ハンターたちの数が膨らむにつれ、フクロウの数は1羽ずつ減っていった。 いったい、どこへ行ったのだろうか。 ストレスで死んでしまったのだろうか。

 彼らが棲んでいた柳の木は、まるで空き家のようだ。 留守になった枝で戯れているのは騒がしいムクドリだけ。

 短い期間だったが多摩川河川敷のスーパースターになったフクロウたちが、どこへ消えたのか、誰も知らない。

2011年3月15日火曜日

なぜトイレット・ペーパーの買いだめ??


 戦場ジャーナリストは、どんな事態に直面しても、「なんとかなるさ」と楽観的でなければならない。 だが、今朝、近所のスーパーに買い物に行って、頭に血が上ってしまった。 好物の納豆が売り場の棚から消えてしまっていたからだ。

 納豆ばかりではない。 カップ麺、牛乳、米、スパゲティ、パン、肉…。 トイレット・ペーパーや生理用品、乾電池、カセット・コンロ用のボンベ、色々なものが消えていた。

 地震・津波は、確実に首都東京の生活に影響を与えている。 それにしても、買いだめ騒ぎは行き過ぎではないか。

 スーパーでなにも買う気が起きなくなったので、気晴らしに散歩をした。 そして、なにげなく道端に目をやると、ツクシが芽を出していた。 そうだ、スーパーなんかで買い物をしないで、ツクシを食おう。 腹の足しにはならないが、醤油と砂糖で炒めるとビールにすごく合う。

 100本ほど摘んで、面倒くさいヘタ取りをしているうちに、ふと思った。 「なぜ、トイレット・ペーパーの買いだめが起きているのだろう」と。 

 今どき、日本で「温水肛門洗浄便器」(TOTOの「ウォッシュレット」、INAXの「シャワートイレ」)のない家など皆無に近いのではないか。

 洗浄便器が普及するずっと前に住んでいたインドネシアの人たちに習ったおかげで、用便のあとは水で洗うだけで、拭いたり乾かしたりせず、そのままパンツをはくのが習慣になっていた。 だから、洗浄便器を使い始めても温風乾燥のボタンを押したこともなかったし、トイレット・ペーパーを使ったこともなかった。 多少パンツが湿っても、すぐに乾くから気にならない。

 だが、どうやら日本人の多くは、洗浄便器とトイレット・ペーパーの両方を使う二重手間をかけているらしい。 買いだめに走るということは、そういうことだ。

 洗浄して、なおかつ紙で拭く必要があるのだろうか。 もしかして、オレはずっと洗浄だけでは十分きれいにならないまま、クソをつけて長いこと生活していたのだろうか。 これは由々しき問題だ。

 すぐにツクシのヘタ取りを中断し、トイレに行って、INAXの便器に貼ってあるステッカーに記してあるフリーダイアルサービスの番号をメモして電話してみた。

 応対は非常に丁寧で親切だった。

 こちらの質問は、①洗浄だけで紙を使わない場合、衛生上問題はあるか②洗浄のあと乾かす必要はあるか―の2点。 

 その回答は、簡潔かつ実に明快だった。

 ①衛生上、まったく問題ない。

 ②乾燥するかどうかは、個人の好みで、乾かさなくてもまったく構わない。

 嬉しいではないか。 トイレット・ペーパーを使う必要などないのだ。 オレはずっと正しい洗浄便器の使い方をしていたのだ。

 だが、そうだとすると、この買いだめ騒ぎは何だ。 潔癖症の日本人が無意味な資源無駄使いをしている現実が、巨大地震によって暴露されたのではないか。

 洗浄便器は、日本のトイレ文化に革命を起こした。 だが、TOTOもINAXも企業責任を十分に果たしていない。 トイレット・ペーパーは無用だと啓発活動をしなければならない。 この国家的危機はまたとない機会ではないか。

 (まあ、考えてみれば、水道も止まる大惨事を想定すれば、トイレット・ペーパーはやはり必要かな? いや、そんな事態になれば、ケツの汚れなんかどうでもいい?)

   

2011年3月12日土曜日

3月12日、東京、巨大地震の翌朝


 開店前のパチンコ屋の行列は、いつもより短かった。

 スーパーマーケットは朝から大混雑で、最初の石油ショック以来おなじみになったトイレット・ペーパーの買いだめが始まっていた。

 土曜日の朝いつも混雑しているジョギング・コースは、人の姿がまばらだった。

 草野球のグラウンドにも人の姿はなかった。

 ゴルフ練習場もがらがらだった。

 東京都内は、巨大地震の被害を直接受けたわけではないが、明らかに街の雰囲気はいつもと異なる。 春の到来を予感させる晴れた空と温かい空気。 だが、何かが重苦しく人々の上にのしかかる。

 東北地方の人々を襲った悲劇が東京にやって来なかったのは、単なる偶然だとみんなが感じているからだ。 次は、われわれの番かもしれない。

 そして、それは、落ち目の日本へのとどめの一撃になるのか。

2011年3月11日金曜日

巨大地震がやって来た


 2011年3月11日(金)を、多くの日本人が忘れられない日のリストに、新たに加えるだろう。

 マグニチュード8.8という日本の観測史上最大という地震の揺れが来たとき、自分がどこにいたか、どう対応したか、まわりの光景はどうだったか…。

 そして、津波のニュースは津波より速く世界に広がった。

 日本時間11日午後6時すぎの段階で、ル・モンド紙(フランス)、フランクフルター・アルゲマイネ紙(ドイツ)、BBC放送(英国)、ヒュリエット紙(トルコ)、PTI通信(インド)、バンコク・ポスト(タイ)、CNNテレビ(米国)、ABCテレビ(オーストラリア)、それに、革命や内戦で大忙しの中東カタールのテレビ局アル・ジャジーラ英語版までが、日本の地震・津波を緊急のトップ・ニュースにしていた。

 今、われわれは、とんでもない出来事に遭遇しているのだ。 巨大地震が、その全貌の片鱗を見せたのかもしれない。 きょう1日は生き延びた。 だが、これからも生き延びることができるのだろうか。

 余震は夜になっても続いている。 揺れるたびに、「生きる」を意識せざるをえない。

 さあ、生きようではないか。

いいじゃないか、多少の間違いは


 こいつは、明らかに誤字だが、「駐車禁止」としか読みようがない。 稚拙な間違いだが、悪意はないだろうし、「こどもの教育上けしからん」と、目くじらをたてるほどのことではない。

 日本の政治家への外国人の寄付が禁止されているからと言って、在日韓国人からのわずかな額の寄付で大騒ぎするのは、この誤字程度の問題だと言ったら、腹を立てる人間がけっこういるのかもしれない。 「油断していると、ワガクニは外国人に支配されてしまうゾ」と。

 気持ちはわからないではないが、物事の本質と関係ないところで、「駐車禁止」の誤字が国家存亡の危機だといきり立つのと、どれほどの違いがあるのか。

 近ごろ、日本の世の中はどうでもいいことで大騒ぎしている。

 たかがテレビ塔がどんなに高くなっても、あのバカバカしいバラエティ番組を垂れ流す道具にすぎないが、マスコミは「東京タワーを追い越した」、「600mに達した」などと大げさに騒いでいる。

 携帯電話のカンニングもそうだ。 手段が年寄りに目新しかっただけで、所詮カンニング、売春の歴史と同じくらい大昔から続いている。 おそらくカンニングで逮捕されたのは史上初めてではあろうが。

 賃貸パンダの話もそうだ。 パンダはかわいくても中国から到着して名前が決まったというだけで、なぜ新聞の一面の大ニュースなのか。

 どんどん幼稚になっていく日本社会で、「これは重要なことだ」と記憶すべきことはさしてないような気もする。 認知症になっても、実は、困ることはないのかもしれない。 考えようによっては、これは喜ばしいことだ。

2011年3月9日水曜日

カンニング革命は成らず


 アラブの若者たちが、独裁者打倒のために命懸けで携帯を使っているというのに、日本の若者は入学試験で姑息な携帯カンニングとは…。
 と、嘆くだけなら、日本のマスコミと同じだ。 この事件が発覚した直後、ある新聞のコラムは「これは明白な偽計業務妨害罪だ」と書いていた。 これは凄い。 こんな罪名を世間一般のたいていの人は知らない。 この時点で、報道によれば、警察ですら捜査に踏み切れるか確信を持てないでいた。 だが、コラムは記者風情の分際で、罪名を断定していた。 このことは、つまり、そこまで踏み込むことによって、現在の日本の入試制度を破壊する行為を断じて許さないと主張しているのだ。
 この新聞の主張を現在のアラビア語に翻訳すると、「現体制に逆らう者は絶対に許さない」。 つまり、カダフィと同じなのだ。
 とは言え、カンニングをした19歳の予備校生にはがっかりさせられた。 肝っ玉が小さくて、頭が悪くて、世界を見回すことのできない典型的な日本のアホだった。 そもそも、目新しくはあるが、Yahoo知恵袋などに投稿して回答を得ようとすれば身元がばれるのは、わかりきっている。
 事件が最初に報道されたとき期待したのは、新しい時代の反逆児の姿だった。 
 現在の入試システムで人間の真の能力や個性を読み取ることはできない。 一見、公正で客観的な制度だが、ここで良い成績を取る者は、受験準備に惜しみなくカネを使える豊かな家庭で育ち、受験勉強などは貴重な若さの無駄遣いなどと考えず、親と学校と世間に逆らわない従順なこどもだけだ。
 だから、カンニング実行者には、入試システムの巨大な虚構に風穴を開けようとする確信犯の登場を期待した。 チュニジアで始まった「ジャスミン革命」が形を変え、日本の行き詰まり社会に挑戦状を突きつけたのだというロマンだ。
 だが、それは虚しい夢だった。
 それにしても、知識を自分の頭と書棚だけに蓄積する時代は終わった。 知識はインターネットの中では無尽蔵で、それを誰でも利用できる。 こういう時代に、頭に詰め込んだ知識だけを検査する制度は、グロテスクなアナクロニズムではないか。 少なくとも、あのアホなカンニング少年は意識せずに、この現実を指し示すことだけはできた。

2011年3月6日日曜日

カダフィは禿げている




 1994年にトリポリでカダフィに会ったときに撮った写真をなにげなく見ていて気付いた。
 いっしょに会ったエジプト人記者たちはスーパースターを取り囲むファンのように興奮し、はしゃいでいた。その光景を面白半分で、カダフィの後ろから撮った1枚だった。
 エジプト人たちをメインにしたショットのつもりだったので、手前に写っていたカダフィの後頭部に、これまで注意を払ったことはなかった。
 ふと気付いたのは、カダフィの後頭部は毛が薄いことだった。
 これは凄い発見かもしれない。 世界中の何人がカダフィの後頭部の状態を見たことがあるだろうか。 最近のカダフィは、いつも頭に被り物を着けている。 あれから17年。 もしかすると、今は後頭部の毛はもっと薄くなって、河童みたいになっている可能性がある。
 この写真は、”The Yesterday's Paper” の世界的トクダネを予感させるではないか!!

2011年2月25日金曜日

バーレーン蜂起、ここが知りたい




 イスラム教の戒律が厳しく施行されているサウジアラビアには、酒屋もナイトクラブもない。 とはいえ、世界に酒を飲まない民族はない。 だから、飲酒厳禁だというのに、首都リヤド近郊の沙漠に行くとウイスキーの空き瓶があちこちに転がっている。 サウジ人たちは、どこかで手に入れた酒を宗教警察の目の届かない沙漠に持っていって、密やかなピクニックを楽しむのだ。


 それでも飽き足らないか、要領が悪くて酒を入手できなかった男たちはどうするかというと、週末(木曜日の夜)にクルマを飛ばして隣りのバーレーンへ行って過ごす。


 ペルシャ湾の島バーレーンとは、1986年に完成した全長25kmの海上の橋キング・ファハド・コーズウェイでつながっている。 木曜夜のバーレーン側イミグレーションは、サウジ男たちが運転するクルマでいつもごった返している。


 サウジに隣接するペルシャ湾岸の国々は、なぜかサウジとは反対に、どこも宗教的には比較的おおらかだ。 酒は飲めるし、ナイトライフも充実している。 なかでも、バーレーンは、アラブの尺度では酒池肉林の極みかもしれない。


 とはいえ、東南アジアとは比べようもないが、レストランでは、アラブ人が昼間からフィリピン人のウエイトレスを膝の上に座らせ、おおっぴらに酒を飲んでいる。 サウジ男たちは、これが楽しみで週末の長いドライブを厭わないのだ。


 今、この週末の光景はどうなってしまったのだろうか。 中東に広がった民衆蜂起はバーレーンをも揺るがせている。 臆病な日本外務省のバーレーン渡航注意喚起はまともに受け取れないにしても、サウジ人だって反王政デモが拡大するバーレーンでの夜遊びは躊躇しているに違いない。


 コーズウェイの週末混雑は続いているのだろうか、消えてしまったのだろうか。 サウジ人たちがバーレーン通いを控えているとすると、彼らの欲求不満はどこへ向かうのだろうか。


 まさか、その程度の不満が反体制運動に火を付けることはないだろうが、コーズウェイが社会的ガス抜きの役割を多少とも担っていたのも確かだ。


 BBCもCNNもアルジャジーラもNHKも、コーズウェイの現状を伝えていない。

2011年2月21日月曜日

「アラブはひとつ」は本当だった。


 1950,60年代、第3世界で反帝国主義思潮が広がる中で高揚したアラブ民族主義。 国は違えど、アラビア語、イスラム文化、アラブ人という共通性で結びつくアラブはひとつ。 大西洋からアラビア海まで、広大な地域と人をつなぐ壮大なロマン。

 だが、その夢は、イスラエルとの戦争に破れ、国家エゴが露骨に表面化し、政治指導者と大衆の意識が乖離するにつれ、色褪せていった。

 ところが、アラブ人自身も幻想と思っていた「アラブはひとつ」が忽然と現実化した。 アラブ中の民衆蜂起という皮肉な形で。 今や、蜂起のない国のほうが例外に見える。

 これはいったい、なぜなのだ。

 リビアの事態が、その「なぜ」をみつけるヒントを出していると思う。

 リビアで最初に指導者カダフィへの反旗が翻ったのは、首都トリポリに次ぐ第2の都市ベンガジだった。 かつて王国だったときの中心都市だ。 そもそもリビアは三つの王国の連合体で、全リビアの一体性は決して強くなかったとされる。 きょう21日に国営テレビに登場したカダフィの息子も、この点に言及し騒動の拡大は国家の分裂につながると脅した。

 きのう20日あたりから、カタールのテレビ局アルジャジーラは、リビアの部族の動向を伝えている。 石油を産出するベンガジ南部に居住する大部族ズワイヤ族の長は、カダフィが民主化を実行しないなら、石油輸出を停止させると表明した。

 トリポリの南一帯に居住するリビア最大の部族ワルファラの長も、「もはやカダフィを兄弟とは呼ばない」と反政府の姿勢を鮮明にした。

 こうした状況は、リビアはカダフィの強権によって支配されていたものの、統一国家の基盤は十分固まっておらず、社会は依然として伝統的な部族が中心で、国民の国家帰属意識も育ちきれていなかったことを示唆する。 

 他のアラブ諸国も多かれ少なかれ同じ問題を抱えている。 つまり、独裁者なしで国家統一を維持できなかった。 その最も典型的な例はイラクだ。 サダム・フセイン政権が倒壊すると部族の群雄割拠となり、武装した部族は米軍支配に抵抗した。 エジプトでは大都市カイロで部族社会は目に見えないが、地方に行けば伝統社会が色濃く残っている。

 ヨルダン、イエメン、サウジアラビア...。 アラブ国家はどこでも部族抜きで語ることはできない。 フェイスブックやツイッターといった最先端コミュニケーション手段が民衆蜂起の要因として注目を浴びている。 だが、その背後には、部族の長老たちのずっしりと重い存在があるに違いない。

 強権による国家統一とそこから得るもののない大多数の人々。 同じ手法の支配が続けられていたアラブ諸国には、同じように不満が鬱積していた。  フェイスブックが「王様は裸だ」とみんなに言わせた。 そして、若者たちの行動に、長老たちも頷いてみせたのだ。 

  今アラブで起きていることを、アラブの脈絡で解き明かすには、まだ時間がかかる。

2011年2月13日日曜日

美ジョガーたち











 若くして死んでしまったけれど、1988年ソウル五輪の女子100mで金メダルを獲ったフローレンス・ジョイナーは、時代を先取りしていた。 20年以上前に、近ごろの日本の美ジョガーなどが、とても敵わないファッション・センスを身につけていたのだ。