2009年5月29日金曜日

裁判員制度は悪くない


 ある新聞記者の友人からきいた話である。

 春のよく晴れた日曜日、北関東のある町外れの里山をのんびりと一人で歩いていたとき、偶然、取材先の地方裁判所の職員グループと出会った。グループは、トップの所長以下10人余り。

 友人は、メンバーのほとんどと顔見知りだった。互いに偶然を面白がり、ちょうど昼飯どきだったので、いっしょに弁当を開いた。

 気の利いたのが一人いて、携帯コンロに鍋を載せ、甘酒を作った。あたりには甘ったるい匂いが広がり、みんなウットリしてきたときだった。一目置かれる紳士然とした裁判所長が、おっとりした口調で尋ねた。

 「それは何ですか?」

 一瞬、誰もがとまどい、顔を見合わせた。質問の意味がわからなかったのだ。

 ちょっとの間を置いて、勇気ある一人が「これは甘酒というものです」と、尊敬すべき裁判所の長に、おずおずと説明した。

 長年裁判官を務め、出世コースである地方裁判所長に就いた人物が、60年近い人生を生きてきて、たいていの日本人が、好き嫌いは別にして、知っていると思われる甘酒を知らなかったのだ。

 このエピソードで裁判の怖さを知った。

 耐えがたいほど世間の常識に疎い裁判官が実在するのだ。そういう裁判官に、日本の司法制度は死刑判決を下す権限を与えている。ゾッとするではないか。

 裁判員制度の導入は悪くなかったと思う。

 それでも、被告席に立つ機会があったら、裁判官に訊いてみよう。 「甘酒を知っているかい?」

2009年5月27日水曜日

北朝鮮の核実験


 自分はこういう人間だと思っていても、他人がそのとおりに見てくれるとは限らない。あるいは、自分では意外だと思った他人の見方が現実に近く、はっと驚かされることがある。

 日本は平和を愛する国であって、他国を侵略したり、核兵器をを自らの手で作って武装することなど絶対にありえない。これが日本および日本人の一般的な自画像であろう。

 だが、他人の目には、必ずしもそうは映らない。

 日本には、直ちに核兵器を作って実用化する技術、経済力、マンパワーがあり、「きっかけ」があれば実行するだろう、という見方が外の世界では違和感なく受け取られてる。

 「きっかけ」とは、主として、日本を取り巻く地政学的変化と考えられている。

 最も蓋然性が高いとされるシナリオは、北朝鮮の冒険主義的狂気がさらに昂じて、日本への核攻撃の恐れが現実になる場合だ。

 これがプレッシャーとなり、日本が自前の軍事力増強で北朝鮮に対抗せざるをえなくなれば、核武装が現実の議論になりうる。

 そして、「唯一の被爆国」の核武装は許せないなどと主張する人たちは、現実を理解しないナイーブな感傷主義者と見下され、世の中の本流から弾き飛ばされる。かつてタブーに近かった平和憲法の改憲論ですら、今や公然とした議論になっているのだ。

 日本が核武装をすべきか否かの選択は、日本国民にとって、国家の行方を決定付ける重要な岐路となる。

 だが、そればかりではない。核兵器を持った日本の登場は、世界秩序のとてつもない不確定要因となり、周辺の朝鮮半島、中国から東南アジアに至るまで日本の軍事侵略をかつて経験した国々には悪夢の再来となる恐れが生まれる。

 米国も困惑するだろう。太平洋戦争後、従順に米国に追随していた日本の一人歩きは、世界秩序が未知の領域に踏み込むことを意味する。

 北朝鮮が5月25日、2006年10月以来の2度目の核実験を行った。前回の実験のあと、米国の議会や東南アジアのメディアの一部は、北朝鮮問題の延長線上にある「日本の核武装」への懸念を表明し、当時の米国務長官コンドリーザ・ライスは米国議会とアジア歴訪で、この不安の払拭に努めた。

 この不安を生んだ構図は、今もなんら変わりはない。 「北朝鮮の核武装」の背後には、「日本の核武装」という妖怪が蠢いているのだ。



<Q>How quickly could Japan develop nuclear capability and how realistic is it that they would take this step?

<A>Japan could develop nuclear weapons very, very quickly. There are no major hurdles in their way other than their previously stated strong desire not to go nuclear. So I don't think they will go nuclear any time soon. But the fact that there is this neighboring regime with weapons and a demonstrated willingness to act so brazenly, will put strong pressure upon Japan, growing over time, to reconsider its nuclear stance.

ーJamie Metzi(Asia Society) , Oct 2006

2009年5月25日月曜日

忘れられた開発独裁


 5月25日付け読売新聞朝刊文化欄の 「ワールドスコープ」というコラムに、アメリカ政治外交を専門とする中山俊宏という学者が、世界のアイドル政治家となった米国大統領バラク・オバマの外交について書いている。

 「オバマ政権の国務長官ヒラリー・クリントンは、米国の安全保障は国防(defence)、外交(diplomacy)、開発(developement)という「三つのD」に支えられていると述べている。だが、そこからは重要なD、民主主義(democracy)が欠落していると批判されている。だが、そうではなく、オバマ外交において、民主主義は放棄されたのではなく、開発を中心に他のDに埋め込まれている」「ブッシュ政権は、独裁者の首をとり、選挙をすれば民主主義になると考えていたが、オバマは社会経済環境が整ったあとに民主主義が機能すると考えている」

 こんな趣旨だ。オバマは実は冷徹な現実主義者で、民主主義の実現などという理想を掲げず実利的外交を展開するのではないか、という見方がある。これに対する反論として、納得できる裏付けは示していないものの、一応理解はできる主張だ。

 問題は、これに続く論理展開だ。

 「民主主義は放棄されたのではなく、開発を中心に他のDに埋め込まれている」ことを、筆者は「オバマの開発/民主化の発想」と呼ぶ。

 そして、この発想は、「日本が戦後、アジアの国々で行ってきた開発援助への取り組みの発想と遠くはない」という。さらに、「日本は、性急な民主化ではなく、時間をかけてそれを支援してきた実績がある」と、日本を礼賛している。

 「津田塾大学準教授、日本国際問題研究所客員研究員」という肩書のこの筆者の日本礼賛を、過去20年間断続的に軍支配体制下で自宅軟禁されているビルマ民主化運動指導者アウン・サン・スー・チーはどう受け取るだろうか。

 ビルマ軍政がスー・チーの軟禁を開始した1989年以降も、日本政府は欧米諸国政府による非難の大合唱に加わらず、反民主主義体制に「性急な民主化」を求めず、開発援助を継続した。以来20年。「性急ではない民主化」はいつ実現するのか。

 時代をもう少し遡ろう。1975年にベトナム戦争が米国の敗退で終わると、周辺の東南アジア独裁・非民主主義諸国は、共産化のドミノに怯えた。そういう国が結束して発足させたのが反共ブロック・東南アジア諸国連合(ASEAN)である。

 ASEANを政治的、軍事的に支えたのが米国であり、共産勢力の貧困地帯への浸透を防止するための経済開発を支援したのが日本である。1977年当時の日本の首相・福田赳夫が挙げた功績は、この構図を確固たるものにしたことだ。

 冷戦期のこうした地域構造は独裁者のパラダイスとなった。スハルトやマルコスは、この時代の申し子といえる。

 当時、日本の莫大な開発援助を、誰が民主化のためと思っただろうか。援助の目的はあくまでも現状維持であった。そして、そこに蔓延る利権。

 やがて、マルコス政権は1986年、スハルト政権は1998年に倒れ、民主化が曲りなりにも開始される。だが、日本の開発援助と民主化とは一切関係ない。貢献があったとすれば、日本の援助が政治腐敗に対する民衆の反感を増幅 し、政権打倒のエネルギー蓄積を助けたことであろう。
 
 日本の開発援助とは、むしろ、「民主化」の対極にあったものなのだ。

 読売コラムの筆者は、その論旨展開からすると、おそらくオバマの支持者であろう。そして、オバマが世界の民主化実現を長期的に目指していると信じている。そうであれば、そこに日本型開発援助との類似性を見るというのは、実に奇妙なことだ。

 きっと、コラム筆者にも、新聞社の担当者にも、スハルトやマルコスの開発独裁は、歴史に埋もれた遠い過去の出来事になってしまっているのだろう。だが、歴史の中には、忘れてはいけないことが沢山ある。

2009年5月24日日曜日

挨拶


 「人間同士が何らかの目的で顔を合わせる場合、すぐにその目的に関する話題を始めることはまずない。最初に互いの姿を確認した際、言葉や身振り、あるいはその両方で互いに相手の存在を認めたとわかる行動をする(目を合わせ、手を挙げる、『やあ』と言うなど)。さらに接近して話し始める際も、特定の動作や言葉で互いに話し始める。これらの一連の行動が挨拶である。挨拶が素っ気ない人物は無愛想と呼ばれる。
 (挨拶は)多くの社会で、人間関係を円滑にする上で必須の手続きと見做されている。それ故、挨拶をしなければ、それはそのまま他者との摩擦に発展し兼ねない。
 無表情または無感情な挨拶や、そもそも挨拶さえしないという態度は、『この人は怒っている』『私を嫌っている』などと解釈され得る。『挨拶をしろ』と憤懣を向けられる事もある。初めて顔を合わせる人間に挨拶をしない場合も、相手は『この人は私と関わりを持つ事を望んでいない』『無礼な人間だ』などと考え、落ち込んだり気分を害したりする。
 挨拶という行為そのものに即時的な利益は期待できない。しかし長期的に見た場合、挨拶を一切しない生き方は他者からの好感が得られにくく、また他者との摩擦が生じやすい。その為、挨拶という習慣は、戦術的意義よりも戦略的意義が大きいと考えられている。特に挨拶のコスト(挨拶に使われる時間や労力)が挨拶の利益(摩擦回避や好意)より小さいと感じられる者にとって、挨拶は費用対効果が大きい経済的な投資である。」(ウィキペディア「挨拶」からの抜粋)

        *     *     *     *     *     *

 きのうの土曜日、東京近郊のハイキング登山でにぎわう大山にでかけた。一汗かいて下山後のビールを楽しむのが主目的である。相棒はいつもと同じC、そして目的もいつもと同じ。

 本格的な夏の前、天気は薄曇り、暑すぎず快適な山歩きであった。とは言え、うまいビールを味わうためには、汗の出し方が足りなかった点は反省すべきだった。

 ひとつの発見は、週末で人出が多いにもかかわらず、一見ズボラで無愛想なCが、山道ですれ違う人に、意外と律儀に「コンチワ」と挨拶を返していたことだった。長い山登りの経験が為せる技かな、と想像した。

 山の中では、見知らぬ同士の挨拶が習慣になっている。いつのことから、なぜ始まったのかはわからない。ウィキペディアの「挨拶」の定義で解釈すると、山での挨拶は、人けのない場所で見知らぬ人間と出会ったとき、とりあえず敵でないことを示し、相手の攻撃心を刺激しないことが得策というのが、本来の目的だったに違いない。

 「オレは山賊でも人さらいでもない」というメッセージの伝達だ。これに対し、相手も「心配するな。こっちも、あんたの身ぐるみ剥いで谷底に突き落としたりしないよ」と応じる。これを具体的行動に翻訳すると、ニコッと笑って「こんにちは」となる。それに、様々な危険の生じる可能性がある山中では、他人同士がいつ何時、助け合う関係になるかもわからない。つまり、利益への期待だ。

 東京近郊の大山や高尾山といった老若男女が溢れる安全な山々では、挨拶に、もはや実際的意味はないだろう。それでも知らない者同士が声を掛け合うという山の古き伝統は悪いものではない。むしろ、新鮮さを感じ、気持ちの良いものだ。

 しかし、なぜ、新鮮に感じるのだろう。

 おそらく、東京のような都会に住んでいると、まったくの他人に笑いかけて挨拶することなど通常はありえないからだ。早朝の散歩やジョギングのとき、ごくまれに「おはよう」と声を掛ける人がいる。だが、非常に例外的存在だ。

 東京では、身近にいる他人たちは皆、不機嫌で怒っているように見える。混んだ駅のホームで接触しても、「ごめんなさい」の声はない。黙って無視して去っていく。

 この無愛想さは、世界的にはむしろ日本が例外的であろう。どこの国でも、人通りの少ない早朝にジョガーがすれ違えば、「やあー」と挨拶を交わすし、他人のからだと不注意にぶつかれば「ごめんなさい」が常識だ。

 きっと、東京で他人に声を掛ける人間は、逆に変態ではないかと気味悪がられる。若い女だったら、そそくさと逃げていくに違いない。

 ところが、山では、そんな若い女まで、積極的に他人に挨拶をする。

 もしかしたら、東京近郊の山々で続いている「挨拶」は、形骸化した伝統ではなく、希薄な人間関係をひとときでも濃密にしてみたいと願う都会人の空しい気持ちの顕れなのだ。

2009年5月21日木曜日

It's no use crying over spilt milk, but‥‥


 ずいぶん昔のことだが、山小屋で長いこと働いていた友人が、「すげえ客がいた」と興奮気味にしゃべった。

 食堂の大テーブルでの朝食時間だった。山小屋の朝食だから、味噌汁と漬物、ご飯に生たまごという簡素なものだ。多少の贅沢をしたい客は自前の缶詰を開けて、おかずを一品増やしたりする。

 だが、その一人客の男は、むっつりとした表情で席に着くと、朝食はこれで十分といった表情で、生たまごをお椀に割って入れ、慣れた箸使いで掻き回し始めた。

 ところが、どういうはずみか、お椀をテーブルの上に転がし、たまごを全部こぼしてしまった。それを見ていた友人は可哀そうだから替わりを特別に渡してやろうかな、と思った。

 しかし、その男は動じなかった。蠅がたかりゴキブリが這いまわり不潔このうえないテーブルに広がった生たまごに、とがらせた口を躊躇せずにつけ、ズルズルズルズルと吸い込んでしまったのだ。

 「まいった、えらい根性のあるヤツだ!」と、友人は感心した。この小屋で長年働いていた友人も、こぼれた生たまごを吸い込んだ客など見たことがなかったからだ。まわりの客たちも、唖然として見ていたという。

 だが、男のワンマンショーはまだ続いた。吸い込んだ生たまごを飲みこむと思いきや、男は今度はご飯の上に吐き出し、醤油をかけて掻き混ぜ、あらためて、たまごご飯にして平らげてしまったのだ。

 新型インフルエンザのパンデミックで大騒ぎし、病的な潔癖症がさらに進行しつつある日本の光景を見ていて、かつて日本にもいたタフな男のことをふと思い出した。

2009年5月20日水曜日

沖縄の女


 日本各地で、スーパーマーケットやコンビニを覘いてみると、日本人の生活がいかに画一化しているかを実感できる。全国津々浦々に浸透したチェーン店では、大量生産の同じ食料品が売られ、買われているからだ。

 都会人の農業へのあこがれを台無しにする光景もそこにはある。栽培種類を限定し、モノカルチャー化した農業従事者たちは、農地という名の生産工場へ耕運機を運転して出勤する途中、セブン・イレブンに立ち寄って、1個100円のオニギリをいくつか昼飯用に買っていく。彼らの食生活の貧しさは、東京でアパート暮らしの独身男と大差ない。

 かつて、彼らが百姓と呼ばれていた時代、米一粒にも汗と努力が込められていると感謝した。食べるものはすべて自らの手で作るものだった。

 見知らぬ土地の郷土料理などと言っても、もはや、とんでもない驚き、例えば西アジアのどこかの国の食堂で、ヒツジの脳みそがでんと出てくるような衝撃に日本で巡り合うことはありえないだろう。

 画一化、均質化を国家の基盤にして発展してきた日本では、キュウリやトマトと同じように人間の規格統一も進められてきた。扱いやすいように調教された人間に、同じような餌(B級グルメと称するラーメン狂には、それが御馳走に見える)を与える。そこは巨大なブロイラー国家である。

 それでも、いまだに地域格差が存在しているのは不思議なことで、喜ぶべきか、悲しむべきか。

 例えば、日本人の寿命(平均余命)を市町村別の統計(平成17年厚生労働省)で見ると、男の寿命が最も短いのは、愛隣地区のスラムで有名な大阪市西成区の73.1歳。これに対して、女の寿命が最も長いのは、沖縄県・北中城村の89.3歳。ほとんど90歳にならんとしている。

 全国平均では女が男より7年程度長生きするが、北中城村の女と西成区の男では16年以上の差になる。同じ民族とは思えない。両者の結婚はあまり勧められないだろう。

 そもそも、北中城村ばかりでなく、沖縄の女は統計好きの中央官庁役人にとって、厄介な存在だ。都道府県別の肥満人口(BMI25%以上)で、沖縄は、男が46.7%、女が39.4%で、いずれも全国一、デブ2冠を達成している。一般に、肥満と長寿は矛盾するとされる。だが、沖縄の女は平均余命でも86.88歳と、肥満のくせにトップの座を確保している(男は25位の78.64歳)。

 こういった数字は、日本中のブロイラーには同じような餌が与えられていても、多少の違いがあり、品種によって、環境によって、飼育の結果が異なってくることを示す。

 規格統一という国家主義に抵抗する地下活動にも、多少の希望が見えてくるではないか

2009年5月8日金曜日

”黄金週間”


 純朴な都会人を狡賢い田舎者が騙して金儲けに精を出す”黄金週間”が今年も終わった。

 のどかな5月の田園地帯の街道筋には、「農産物直売所」のノボリがはためき、地元農家の新鮮な収穫物が売られている。だが、「直売所」と名乗るにもかかわらず、都会のスーパーと同じで日本中の生産物もそこでは売られている。

 泥の付いたジャガイモを直売所で見れば、産地表示をチェックしないかぎり、誰だって、そこいらへんの畑で獲れたと信じてしまう。

 でも、この程度なら、まだ可愛げがあるかな?

 落花生で有名な千葉県内の「道の駅」では、堂々と格安の中国産落花生が売られているし、ブドウで有名な山梨県内の中央高速SAでは、チリ産の干しブドウが「巨峰の里」の名で売られている。

 日本人が大好きなブドウ「巨峰」は、ウィキペディアによれば、福岡県で生まれ静岡県で栽培が開始され、山梨は最大産地になっていたが、現在のトップは長野県だそうだ。

 だとすれば、チリ産干しブドウを「巨峰の里」のネーミングで山梨県内で売ることは、二重三重に仕掛けられた騙しのトラップだ。

 都会人は好むと好まざるにかかわらず、賢い消費者になるように教育されている。それでも、”黄金週間”中に、1000円の割引高速料金につられて遠出し、田舎者の巧みな罠に引っ掛かった人数は膨大な数に上るだろう。

 これも、「1000円割引」の経済効果の内訳に当然含まれているのだろう。

2009年5月1日金曜日

ロタ島

 南太平洋、日本人観光客がウヨウヨいるグアム島とサイパン島の間にある小さな島・ロタ。きらびやかなナイトライフやショッピングを期待する観光客が訪問したとすれば、悪い冗談だと泣き出してしまうかもしれない。

 何もないのだ。星空の煌めきには圧倒されるものの、夜は漆黒の闇。島はジャングルに覆われ、人影もまばらな小さな村には、レストランと称する食堂と雑貨屋が数軒。ホテルの外の世界は、これでおしまい。

 炎天下の人工緑地徘徊、重い機材をからだに縛り付けた海中散歩に関心がなければ、この島が与えてくれる最大の楽しみは、ボーっとした時間をボーっとしたまま過ごすことだ。時間がびゅんびゅん飛んでいく東京から来てみると、これは悪くない。

 そういうわけで、ホテルのプールサイドのデッキチェアに寝ころび、風に吹かれて揺れる椰子の葉が擦れる音と熱帯の小鳥の鳴き声をききながら、池澤夏樹の小説「マシアス・ギリの失脚」を読んでいた。(この小説、南太平洋のここら辺りのbanana republicを舞台にしていて、ロタ島にピッタリ)

 昼下がり、時間がのったりと流れる。芝生の庭の掃除人が「ココナツ・ジュースを飲まないか?」と話しかけてきた。そして、長い棒で高いところに鈴なりになっている実のひとつを落して、ナタで切って飲み口を作ってくれた。

 ふと見れば、この男、あご髭をはやした南アジアのイスラム教徒といった風情。南太平洋の島になぜ、と思って、こちらからも話しかけ、会話が始まった。

 きけば、人口3000人余りのロタ島に住んでいるバングラデシュ出身者6人のうちの1人だという。「へぇー、なんでバングラ人がここに?」

 「14年前に斡旋業者に騙された。ロタに行けばアメリカ本土に渡れると言われて喜んで来たが、認められないことがわかった」

 ロタ島はサイパン、テニアン島などと共に、米国の自治領「北マリアナ諸島連邦」を構成している。だが、外国人労働者の本土への渡航は制限されているらしい。

 彼の話によれば、サイパンには数百人、テニアンにも数十人のバングラ人がいる。

 掃除人の収入は「時給4ドルちょっと、1か月に16日、128時間しか働けない。月収は、たった五百数十ドル。この中から家族に仕送りをしている」

 なんてこった、のんびりとした楽園のひとときから、グローバル化した世界の現実に引き戻されてしまったではないか。

 北マリアナ諸島の外国人労働者に対する過酷な処遇が、米国議会で問題にされ大スキャンダルに発展したことがある。米国本土の最低賃金よりはるかに低い賃金で衣料品工場などが外国人をこき使い、米国基準を満たしていないのに「made in USA」として輸出していたからだ。このほかに、中国人女性の人身売買も暴露された。

 このスキャンダルの中心にいた人物が、米国議会の共和党系大物ロビイストであるジャック・アブラモフだ。北マリアナ政府に雇われ、1995年から2001年の間670万ドルの収入を得ていた。連邦法を北マリアナにも適用しようとする議会の動きを抑えようとしたのだ。

 上院議員を費用丸抱えでサイパンに招待したことも明らかになった。ある議員は視察のはずが、サイパンでパラセーリングを楽しんでいたこともばらされてしまった。政治家なんて、太平洋の両岸で同じようなものだ。

 アブラモフは本土の先住民(アメリカ・インディアン)への補助金詐取などの罪で2005年に逮捕され、現在は服役中だ。だが、北マリアナの最低賃金は今でも本土以下に抑えられている。

 どうやら、椰子の木陰であろうと、21世紀の世界では外部と完全に隔絶した場所にはなりえないようだ。

 旅行社が組織した「ナイト・フィエスタ」なる民族ダンスショー付きの野外ビュッフェ夕食会に行ってみた。これまた、「北マリアナ諸国連邦」の現実を見る良い機会になった。

 地元少女たちの腰ミノを着けたフラダンス風のショー、南太平洋風の豚の丸焼。この国の土着の先住民は、ミクロネシア系のチャモロと呼ばれる人々だが、その文化に直接触れる機会は短期訪問の観光客にはめったに訪れるものではない。彼らにとって、「ナイト・フィエスタ」は忘れられない旅の思い出になったかもしれない。

 それは、とても良いことだ。だが、観光客の思い込みと現実はやはり異なるのだ。

 豚の丸焼を作った地元の主婦に料理を称賛したら、ニヤッと笑って言った。「これはチャモロ料理ではなくてフィリピン料理よ」

 「ホント?」 「もちろん。だって、作った私がフィリピン人だし、フィリピンで作っていた料理を作っているんだもの。これ、他の観光客には秘密よ。みんなチャモロ料理と信じているんだから」

 そうか、そういうことか。だが、このことは旅行社が意識しているにせよ、していないにせよ、客を騙したことにはならない。それが、この土地の複雑さだ。

 現在の北マリアナの総人口は推定87,000人。人種構成を見ると、トップはフィリピン人で34%を占め、チャモロは29%で第2位に甘んじている。3位は中国人の12%。フィリピンは海をはさんだ隣りで、海外進出に積極的な人々の国だ。経済発展の足場を作ろうとする北マリアナにフィリピン人が押し寄せたことに不思議はなく、フィリピン人が最大民族になったのは必然の結果であろう。

 そもそも、純粋な「チャモロ文化」なるものは存在するのだろうか。歴史資料によれば、ヨーロッパ人として初めてマゼランがマリアナに到達した1521年のマリアナにおけるチャモロ人口は75,000人とされる。それから約200年後の調査では、5%以下の、わずか3,500人に激減した。外界から持ち込まれた病気やスペイン植民者に強いられた過酷な労働が原因とみられる。

 それ以前からあったチャモロの伝統社会や文化が崩壊してしまったのは明らかだ。その空白を埋めたのはスペインとカトリックであり、現在の”チャモロ文化”とは、ある種の混淆文化とされる。

 そして、スペインのあとのドイツ、さらに日本の支配、太平洋戦争後は米国の影響下に入った。さらにフィリピン人や中国人を呼び込んだ経済開発。 

 旅行案内書にある「チャモロ文化」とは、ひとつのものではなく、ロシアのマトリョーシカ人形のように、胴体をねじって明けると、中から異なる顔が次々と現れる。どれが本当の顔かわからない文化なのだ。様々な意味で、「未開の土人文化」という概念は、大いなる誤解と美しき偏見に満ちている。

 マゼランの到来から500年近くたった。世界の最先端を行っているつもりの先進国で「グローバル化」が広く意識されるようになったのは、冷戦終結以降のことであろう。せいぜい20年前。

 だが、チャモロ人たちは500年前から「グローバル化」を目撃していた。彼らの網膜には、島々に溢れる日本人観光客の存在も、一過性の出来事と映っているのかもしれない。